2019/06/18 地震


ウチの実家は、山形県鶴岡市(旧温海町)。
両親によるとものすごい揺れだったそうだ。

二人が今住んでいるのは温泉のある湯温海という所。
僕も高校の時に1年ちょっと住んでいた。

鉄筋コンクリートの団地なのであまり心配はしていないが、
山奥に行った小国という場所に古い一軒家が心配。

これから明るくなって被害の全容が見えてくると思う。
場合によっては田舎に帰ってお手伝いしなければだけど、
余震もあるし交通網も遮断されてる恐れもある。

どうか大した被害が出ていませんように・・・・。

2019/06/17 小岩散歩 03 友の湯/片山こぶしひろば/片山公園/水天宮/小岩駅

銭湯「友の湯」に入浴。
その後は小岩駅に向かって北進する。



◆友の湯






なんと、鉄道のジオラマがある!




さらに猫がたくさんいる!
12匹いるそうだ。

石鹸とシャンプーが使えたので、タオル一枚で済んだ♪




◆片山こぶしひろば




◆片山公園




◆水天宮

今回で3回目。
2019/05/17 小岩散歩 01 小岩駅/サンロード/昭和通り商店街/水天宮/片山公園/東小岩滝児童遊園 - ovanの社会科見学
2018/02/05 小岩散歩 01 フラワーロード/南小岩天祖神社/圓蔵院/小岩前弓稲荷/水天宮/稲荷神社/東小岩滝児童遊園 - ovanの社会科見学




小岩駅

ゴールの小岩駅

お散歩して銭湯に入ったから電車の中で爆睡しちゃった。
あぶなく寝過ごすところだった・・・・。
危険すぎる(w

2019/06/17 小岩散歩 02 市川橋/小岩菖蒲園/善養寺/東養寺/ムラカミペットセンター

小岩菖蒲園でご飯を食べて、中川の河川敷を下流に向かって歩く。



◆市川橋




小岩菖蒲園

菖蒲がキレイ♪
今回で3回目。
菖蒲のキレイな季節に来たのは初めて。
2019/05/17 小岩散歩 04 小岩菖蒲園/和洋女子大/本蔵寺/北小岩歩道橋/小岩北口本通り会 - ovanの社会科見学
2018/02/05 小岩散歩 04 小岩菖蒲園/京成電鉄 江戸川橋梁/小岩市川の渡し跡/御番所町の慈恩寺道石造道標/北野神社/京成江戸川駅/宝林寺/本蔵寺 - ovanの社会科見学






















◆善養寺

以前来たことがある。
2018/02/05 小岩散歩 06 稲荷神社/JR総武線江戸川橋梁/善養寺/東小岩天祖神社/要法寺/都立篠崎公園 - ovanの社会科見学



影向(ようごう)の松






全てこの一本から・・・。
やはりものすごい大きさだ。



この辺の説明も前回の日記で!










◆東養寺







◆ムラカミペットセンター

昭和なたたずまい・・・。
WEBで調べても良い情報が得られなかった。
閉店してるのかな?





続く。

2019/06/17 小岩散歩 01 小岩駅/小岩北口仲通り/ふくろう児童遊園/北小岩一丁目児童遊園/基礎杭

珍しくお休み♪
細君と一緒に小岩を散歩。
まずは小岩駅から小岩菖蒲園へ向かう。



小岩駅



◆小岩北口仲通り






◆ふくろう児童遊園

総武線のガード下にある公園。





フクロウさんの椅子?




ここにもフクロウさん。




◆北小岩一丁目児童遊園




◆基礎杭

上は総武線



昭和47年!?
大豊(だいほう)建設さんの名前は初めて聞いたなあ。
東証一部上場なんだ!
失礼いたしました。



続く。

2019/06/09 船橋マリンフェスタ

24時間勤務アケで、船橋マリンフェスタに行ってきた。
今年は護衛艦「あまぎり」が来ていた。









アスロック






62口径76㎜連射砲








3連装短魚雷発射管





ハープーン






短SAMランチャー









格納庫






雨予報だったせいかお客さん少なかった。




地上には陸自の車両がならんでいた。




PAC-3のミサイルは初めて見た気がする!




もちろん前代の南極観測船「しらせ」も公開していた。

こちらは何度も見学しているので今回はパス。






またサッポロビールにも行きたいなあ。
ここは普段から見学スポット♪

facebookの友人、クロスケさんにもお会いできた。
またどこかのイベントでお会いできるかな?

2019/06/07 群馬ツアー 02 旧中島家住宅/堺赤レンガ倉庫/織間本陣跡/観音山古墳/高崎駅

西にある高崎方面に向けて移動。
黄金に輝く麦畑がとても美しかった。




◆旧中島家住宅




中島飛行機創始者、中島知久平の住宅。
ものすごく広くて立派な住宅である。

wikiには・・・・
『中島 知久平(なかじま ちくへい、明治17年1884年)1月1日 - 昭和24年(1949年)10月29日)は日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や政友会総裁を務めた。 』
とあった。













まだ修復が完全ではなく、一部の部屋にしか入れなかった。





滑走路があって飛行機が飛ぶところを客人に見てもらっていたそうだ。
やることがちがうね!(w




『昭和24年(1949年)10月29日:脳出血のため、泰山荘にて死去。』
泰山荘は国際基督教大学内にある文化財
中島飛行機三鷹研究所は国際基督教大学の敷地内に以前あったとのことで、一部建物が校舎として使われているとのこと。


泰山荘に行ってきたときの日記。
2018/10/20 国際基督教大学 「泰山荘見学会」 - ovanの社会科見学



他、中島飛行機関連のオヴァン日記。
2016/11/23 健康ウォーク2016 - ovanの社会科見学

2017/03/09 part3 NTT技術資料館 - ovanの社会科見学



多磨霊園のお墓があるとのこと。
2017/02/13 part4 多摩村役場跡/白糸台駅周辺/白糸台掩体壕/多磨霊園 - ovanの社会科見学
今度行ったときは墓参します。









◆堺赤レンガ倉庫



堺赤レンガ倉庫の歴史 

堺赤レンガ倉庫は、境運輸倉庫株式会社により大正8年(1919)に「繭の乾燥場」、「繭の保管庫」として建設された2階建て総レンガ造りの倉庫です。
 この倉庫は、戦時下に兵士用の食糧の乾燥場として使用され、蚕糸業の衰退後は、電気部品製造工場の製品庫として使用されました。
 また、この倉庫からの繭の輸送には東武伊勢崎線明治43年(1910)開通)が利用され、世界遺産である「富岡製糸場」にも運ばれていたとのことです。
 平成28年(2016)にぐんま絹遺産に登録されたこの倉庫は、かつて蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な遺産です。

 
イギリス積み
 レンガの積み方には、長手面の段と小口面の段が交互に並ぶイギリス積みと1段に長手面と小口面が並ぶフランス積みが多く見られます。境赤レンガ倉庫はイギリス積みで造られていますが、同じレンガ造りである世界遺産の「富岡製糸場」はフランス積みで造られています。

開口部(窓など)
 境赤レンガ倉庫には、南側1階に出入り口が3ヶ所、2階窓が7ヶ所設けられています。北側には開口部はありません。出入り口のアーチ部分のキーストーン(要石)には、「さ」の文字が記されています。










◆織間本陣跡

 旧例弊使街道、境宿織間本陣 は寛文二年(1662年)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫氏の家を当地に移築したものである。茅葺平家建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残しており、本陣として旧境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九部屋を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上座の間を有した。
 上座の間から見る中庭には見事な松樹があり来遊した江戸の学者、古賀侗庵 は織間本陣を蒼松幹 と命名した。また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭 候はここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松幹の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例弊使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例弊使や公卿門跡衆の休憩を主とした。そのとき関札と呼ばれた休憩時の札が下賜され、門前に掲げられた。
 寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶 は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
  - 時鳥我が身ばかりに降雨か -
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。




旧例弊使街道をwikiで調べた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BE%8B%E5%B9%A3%E4%BD%BF%E8%A1%97%E9%81%93





◆観音山古墳





史跡観音山古墳

 群馬県古墳時代後期の代表的前方後円墳である。
 墳丘は、前方部を北々西に向け全長97m、前頭部幅64m、高さ9m、後円部直径61m、高さ9.5mの規模で、すべて盛土で築かれている。中断部と墳頂部には埴輪の配列がある。
 周堀は二重にめぐり、内堀と外堀は中堤(ちゅうてい)で区分される。全長178m、幅143mほどである。
 石室は、後円部に築かれた巨大な横穴式石室で南西に開口する。壁面は榛名山二ツ岳噴出の角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)の切石を積み上げ、天井石は吉井町産の牛臥砂岩(うしふせさがん)が用いられている。
 なお、出土品は県立歴史博物館に展示されている。



観音山古墳の埴輪

 古墳の多い群馬県には、すぐれた埴輪がたくさん知られています。なかでも、この観音山古墳からは、造形的にもりっぱなものが多く発見されていることで有名です。
 墳丘の頂上部には、後円部に円筒列で囲んだ中に家・楯・にわとり・太刀、前方部にも家や楯など、ここに葬られた豪族の安住の館を表現したともいわれる埴輪が置かれていました。
 中段の平坦面には、石室の入り口付近に、祭りを行う一組の盛装した男女とその従者と考えられる三人童女、弓を負う武人・食物を捧げる人から成る祭人グループ、それに続いて、盛装の男子・甲冑を付けた武人・鍬を負う農夫などの葬送儀式に加わる人々とそれを警護する盾持ち人が続き、前方部には地位や財力を表す飾馬と馬引きなど、古墳時代の人々の生活や風俗習慣をうかがわせる埴輪が並べられていました。
 これらの埴輪は、石室から発見された副葬品などとともに、群馬の杜の県立歴史博物館で展示されています。






高崎駅

高崎で反省会。
その後は高崎線、中央線経由で帰宅。
電車でたっぷり寝ちゃいました(w






旅メモ

2019/06/07 群馬ツアー 01 渡良瀬遊水地/三県境/雷電神社/赤岩渡船/邑楽町シンボルタワー「未来MIRAI」

24時間勤務アケで、友人の案内による群馬ツアー。
宇都宮線古河駅に集合し出発。




渡良瀬遊水地
watarase.or.jp
雨で写真を撮らなかったのでHPでどうぞ。
ハートの形をした綺麗な形の遊水地。


wikiには、
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池である。 』
とあり、
『遊水地の土壌には2010年現在でも銅などの鉱毒物質が多く含まれている。』
とあった。

2012年ラムサール条約に登録された。



ラムサール条約についてちょっと調べてみた。
ラムサール条約 - Wikipedia


僕の母校のすぐ近くにあった「大山上池・下池」が卒業後に登録されていた・・・。
池の周りがマラソンコースだったんだよなあ。

大山上池・下池 - Wikipedia






◆三県境

埼玉県、群馬県、栃木県の県境。







 今から100年以上前明治43年(1910)から着手された渡良瀬川谷田川の流路が変更されました。したがって旧河道は廃川となり民地として払い下げられました。
 その後谷中湖造成工事により発生した土砂に埋め立(約2m)られ耕作地として整備され、日本で唯一の平地の三県境となりました。



雷電神社

創建は社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされている。
wikiより



弁財天




稲荷社/金刀比羅神社/天満宮



神馬



八幡宮



奥宮



神馬

神馬が二つあった。



福禄寿


つつじの舘林七福神めぐり

 椿の福禄寿 福禄寿(ふくろくじゅ)は七福神の一、幸せの神の名で、福(ふく)は子孫繁栄のしあわせ、寿(じゅ)は健康長寿のしあわせを意味します。
 中国は宗(そう)の時代、元祐(げんゆう)年間(1086~1094)に、その姿が短身で、頭が長く、豊かなひげを蓄えた老人が都に現れ、我は人の長寿を自由にあやつる聖人である、と語ったといいます。この老人を宮殿に呼び、酒をもてなし問うたところ、老人は、南方から来たと言い、しばしば黄河の濁流を清める不思議な行いをした、と言います。皇帝はこの老人こそ、人の寿命を支配するという寿星(南極星)の化身であると認めたと伝えられます。
 はるかな昔、大椿(だいちん)と呼ばれる霊木(れいぼく)があって、八千年の春を永らえたといわれます。長生きのことを椿寿(ちんじゅ)というのはここから来ています。当神社の椿の庭の福禄寿は不老長寿・所願満足の宝玉を捧げ持ち、元気な子供を連れています。
 よくよくお祈りされて、日々、陰徳(いんとく)をお積みくださり、御加護を戴(いただ)かれますよう。







◆赤岩渡船

手前に渡し用の船。
遠くに「福川水門」が見える。
福川水門 | 利根川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局





赤岩渡船の由来

 赤岩渡船の歴史は古く、既に永禄年間(1558年~1569年)上杉輝影(謙信)の案内状に寄れば、船橋を架けて軍が渡河していたと伝えられている。
 この河岸は、江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資などの集積地であり、上下流の物資の中継地点としてにぎわい、赤岩の地は宿場町として栄えた。また、坂東十六渡津(渡場)の一つに数えられ、中山道熊谷、行田方面及び、野州足利方面への往還として水陸交通の要衝であった。大正十五年に県営となり、昭和二十四年千代田町が県より直接委託を受け管理運営に当たっている。現在、群馬県邑楽郡千代田町赤岩と、埼玉県大里郡妻沼町葛和田を結ぶ県道熊谷、舘林線の道路渡船として地域の人々に利用されており、付近は水上レジャーのメッカでもある。








 赤岩渡船は千代田町赤岩から利根川をはさんで向う岸の埼玉県熊谷市葛和田を動力船で結んでいる、主要地方道(県道)熊谷・舘林線上にあります。利根川広しと言えども現在3つしかな残っていない利根川を渡る橋の無い公道の1つです。そのうち主要地方道はこの赤岩渡船だけで、年間数千人の人々に利用されています。
 赤岩渡船の歴史は古く、戦国時代、上杉謙信の文献にも登場します。その後江戸時代には水運が発達し、利根川を利用して江戸や房総方面との交通が盛んにおこなわれました。町内では赤岩のほか、舞木、上五箇、上中森、下中森などの河岸と呼ばれる渡船場が栄えました。特に赤岩は水深もあり立地条件にも恵まれ、江戸からの大型船の終点という河川交通の要所として、坂東16渡津に数えられ繁栄に沸きました。
 しかし、永かった繁栄も明治時代の中頃までで、その後は、鉄道等の交通機関が発達するにつれ急速に衰退し、渡船場として機能だけ残りました。各地の渡船場も廃止の一途をたどりましたが、この赤岩渡船は、ただ一つこの地域で残された数少ない河川交通手段として、人々に愛され、利用されていまに伝わっています。
 大正15年県営、その後昭和24年から県委託事業として千代田町が管理運営を行っています。





赤岩河岸 水運の歴史

 赤岩の河岸は、関東平野貫流し、日本三大河川の筆頭で坂東太郎とも呼ばれる利根川中流域の左岸に位置し、鶴舞う形の群馬県の首の部分に当たる。戦国時代の末(天正十三年頃)には、舟による輸送や舟をつなぎ合わせて船橋かけて武士団を渡したことが上杉謙信の文献にも登場することから、昔から舟が多数存在し、舟を利用するのに都合の良い地点であった。
 本格的に船を利用した水運が発達するのは江戸時代になってからで、高瀬舟などの大型船が利根川の水運を担った。幕府の命により各地から年貢米や参勤交代の荷物、蚕糸、絹織物などの多くの産物が日本橋へ運ばれるようになり、五街道を使う陸送よりも高瀬船を使った鮒運は、安く大量に物資を運べることか急速に普及した。水深の深かった赤岩河岸は、高瀬舟の定船できる利根川の最上流部であったため、各地から物資が収集され、水運の拠点として重要な役割を果たすようになった。この当時、赤岩河岸には高瀬船20艘、小舟100艘以上があったと言われている。
 明治になると富岡製糸場(平成二十六年世界遺産登録)が創業し、そこで生産された生糸を倉賀野(高崎市)がら小舟で赤岩へ運び、高瀬船に載せ替えて江戸川から東京湾経由で横浜まで運ばれた。
 その後、日本鉄道第一区(明治十七年高崎まで延長、現在のJR高崎線東北本線)の開通により高瀬舟を利用した水運は急速に衰退していったが、渡し船を利用した水運は昭和初期まで続き、桐生産の絹織物などは赤岩河岸に集荷され、対岸の葛和田(埼玉県熊谷市)経由で熊谷駅から上野駅へ輸送された。また、自動車が普及し始める昭和四十年代初頭までは、渡し船で対岸側に嫁ぐ花嫁や嫁入り道具を運んだ。
 現在では、この地域で残された数少ない河川交通手段として渡船機能だけ残り、人々に愛され、親しまれながら利用されている。









邑楽町シンボルタワー「未来-MIRAI-」

完成は1993年だから、僕が上京した年だ!
全長は56.5m。
公式サイトが見当たらないので数字は正確でない可能性がある。





エレベーターの中に、スカイツリーと比べるパネルがあった。








あいにくの雨。
雨でなければ展望室のさらに上にある屋上展望室に行けるとのことだった。




続く。