2020/01/13 西台散歩 09 平和台なでしこ児童遊園/庚申塔/西本村稲荷神社/ふれあい公園/平和台えのき児童遊園/平和台駅

環八通りから離れて平和台駅へ向かいゴール。



◆平和台なでしこ児童遊園





庚申塔






◆西本村稲荷神社


御嶽神社





◆ふれあい公園





◆平和台えのき児童遊園




平和台駅

ゴールの東京メトロ平和台駅







暖かくて散歩しやすかった。
西台の首都高速南側エリアの段差がすごいね。
google mapには坂の名前が書いてあったけど、現地には標識など何も見当たらなかったのは残念。
都営住宅がかなりあるね。
三田線の蓮根より西は団地から通う人で多いんだろうねぇ。

2020/01/13 西台散歩 08 北町わかば児童遊園/北町二丁目第4アパート/連隊門哨所/練馬北町陸橋/庚申塔/平和台二丁目第3アパート

自衛隊練間駐屯地まで南下後は環八道りに出て南西へ向かう。



◆北町わかば児童遊園







◆北町二丁目第4アパート

都営住宅。







◆連隊門哨所



連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前進「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に栗濱駐屯地から練間駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2か月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。



門の奥は陸上自衛隊練間駐屯地。







◆練馬北町陸橋

上は環八通り
下は川越街道。








庚申塔


ふじ大山道

 ふじ大山道は、大山街道富士街道、道者街道ともよばれています。それは阿夫利山ともい われた大山(神奈川県)へ、また大山から富士山 への道者たちが通ったからです。
 この街道は、北町一丁目で旧川越街道から分かれて、石神井、田無を経て神奈川県伊勢原市 に達していました。練馬の中央部をほぼ東から 西南に横断し、区内では約8kmに及 んでいます。旧川越街道との分岐点には「従是 (これより)大山道」と刻んだ道しるべ(道標) が建てられました。
 旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼が盛んに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山 は開き」とあるように、六月二十八日は初山で、それから七月十四日まで、連日、関東の村々か ら集まった大山講や富士講の人々でにぎわいま した。その道者たちが通ったのがこの街道です。








◆平和台二丁目第3アパート

都営住宅。









続く。

2020/01/13 西台散歩 07 金乗院阿弥陀堂/北町ふれあい公園/北町観音堂/東武練馬駅/北町商店会/本陣跡地緑地/北町浴場

東武練馬駅南東エリアから一度北上して東武練馬駅へ。
そこからは北西エリアを散策。



金乗院阿弥陀堂



阿弥陀堂と千川家墓所
 この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土記稿』に「阿弥陀堂二、一ハ金乗院持、一ハ清性寺持ニテ弥陀ハ春日の作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、金乗院と合併しました。本堂の半鐘は天保十四年(1843)のものです。銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。
 墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られています。
 千川上水は元禄九年(1696)、江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。
 開通から十年後の宝永四年(1707)、上水は付近二十か村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、千川用水の取締役として維持管理に努めました。
 この墓所には初代徳兵衛から数えて三代目の源蔵以下四代善蔵、五代仙輔、六代民蔵、七代右保などの墓が建っています。
練馬区登録文化財
〇千川家の墓
阿弥陀堂の半鐘








◆北町ふれあい公園







◆北町観音堂



北町観音堂(石観音堂)
 ここには、天和二年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音庚申塔など数多くの石造物があります。 江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文『遊歴雑記』 にも、文化十二年(1815)にここを訪れた記述があり、往 来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印ともなっていた ことが分かります。

練馬区指定有形民俗文化財 「北町聖観音座像」 平成八年二月指定
 高さ270cm、区内最大の石仏。背には「武州川越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所奉新造正観音為四 恩報謝也告(時)天和二年八月⋯」、台座には川越街道沿 いの二十九の地名が刻まれています。

練馬区登錄有形文化財「北町の仁王像」 平成十一年一月登録
 向かって右、阿形(あぎょう)像、左、畔形(うんぎょう)像。重厚な造りの像で、両像 の背には「天和三年⋯奉立之施主光岳宗智⋯」の銘があり、 聖観音座像建立の翌年に建てられたことが分かります。

馬頭観音
 高さ138cm、頭上に馬頭を戴き、忿怒(ふんぬ)の相をしています。制作年は不詳ですが、形態から江戸時代の造立と推測されます。


北町聖観音座像


北町の仁王像


馬頭観音/庚申塔


北町観音堂・塀工事等整備記念碑

 北町は災害に強い街づくり、密集住宅再生事業に取り組み、道路の拡幅、公園の新設、建て替え促進などの事業を行い、既に十五年が経過している中で、北町観音堂から北側に入る 路地が狭く、消防自動車が入りやすく、防災機能向上させるために、境内の一部を隅切り部分として提供し、地域のために資することといたしました。
 その上で、北町は旧川越街道の宿場町でもったことから、宿場のイメージを創造 ていく運動もかかねてから行っており、その意を活かした整備はどのようなものがよいのかを考慮し、塀の一部をなまこ壁にすることと致しました。
 また、境内には小型の石仏四体がありますが、昔は道路治いにあったとのお話もあることから、旧道に面した位置に変更し、争くの方々の目に触れ、多くの方々に愛される北町観者堂で有りたいとの思いを込め、この度の全体計画としたものであります。
 江戸時代からの町内の大切な旧跡である北町観音堂が明治、大正、昭和、平成と更に未来永劫続いていく事を祈念すると共にこの工事を記録するためこの記念碑を設置するあのであります。


旧川越街道

 この道は、むかし川越と江戸を結ぶ道路でした。室町時代太田道灌の頃には、すでに開かれていて、北武蔵と 南武蔵とを結ぶ重要な道でした。
 江戸時代、参勤交代でこの道を通った大名は川越藩主だけでした。したが って宿泊の必要が少なく、下練馬宿に は大きな旅籠がありません。庶民を相手とした休み茶屋が数軒あった程度でした。
 「栗より(九里四里)うまい十三里」は、 川越芋の宣伝文句として有名ですが、 江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51km)でした。
 このあたりは下練馬宿と呼ばれてい ましたが、交通の要所に石造物や道標があり、むかしの街道の雰囲気が残っ ています。







東武練馬駅








◆北町商店会

西台散歩 06 にも出てきた商店街♪
こちらは東武練馬駅の西側になる。
2020/01/13 西台散歩 06 富士嶽神社/下練馬の富士塚/清性寺跡・白狐稲荷神社/北町商店街/北一商店街/徳川綱吉御殿跡/富士橋跡 - ovanの社会科見学








◆本陣跡地緑地



旧川越街道の商店街のあたりは、江戸時代に「下練馬宿」がおかれました。川越街道は、江戸日本橋と川越の間およそ43kmをつなぎ、板橋淑で中山堂と分かれました。下練馬宿は、上宿(かみじゅく)、中宿(なかじゅく)、下宿(しもじゅく)から構成され、本陣・脇本陣(幕府役人や大名などが宿泊・休憩する施設)、問屋場(といやば)(馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで届けるところ)がありました。下練馬宿に暮らす人々は、名字を名乗れる人は少なく、商家や職人などは家ごとに「屋号」をtyけて呼び合っていました。江戸から近い下練馬宿は、宿泊よりも休憩するところとして利用されることが多かったようですが、参勤交代のほか、行商人や大山・富士参詣の旅人など、さまざまな人々の往来でにぎわいました。


練馬大根発祥の地碑



 ここ、北町には五代将軍徳川綱吉が右馬頭(うまのかみ)であったころ、御殿を構え、一時期療養していたと伝えられています。その際に、大根を栽培させ、良い大根が取れたことから、江戸に帰城した後も大根を献上させたという伝説があります。
 また、この場所に下練馬宿の本陣があったことから、名称を本陣跡緑地としました。







◆北町浴場

銭湯♪








続く。

2020/01/13 西台散歩 06 富士嶽神社/下練馬の富士塚/清性寺跡・白狐稲荷神社/北町商店街/北一商店街/徳川綱吉御殿跡/富士橋跡

東武練馬駅南東エリアを散策。
駅少し南に東西に通る道は旧川越街道だった。



◆冨士嶽神社


境内社


鳥居1


鳥居2


旧川越街道

 この道は、戦国時代の太田道灌川越城江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な 役割を果たす道でした。
 江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分か れる脇往還として栄えました。日本橋から川 越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい 十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役 かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村へ二十六丁、下白子村へ一里十丁、道幅五間、南へ折ルレバ相州大山へノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂へ の道が分かれています。 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋 場などがありました。旅の商人や富士大山詣、 秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石 観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。








◆下練馬の富士塚



當社は、明治先代に上駅地に築かれたと伝えられ、徳川五代将軍綱吉の頃には時を揚げての祭典もあり、又古く此の地は宿場街として大変な賑わいを見たところで、爾来富士浅間神社の霊山として厚く崇敬され今日に及んでいる。
なお、山は明治の前に第一回、明治五年六月に第二回の築造がなされ、街内の発展に伴い、昭和二年六月第三回の築造により現今の様態を呈するに至った。



山頂


標高プレート

山頂祠の前にある。
標高37.76mとあった。


山頂からの眺め

こちらが一番開けていた。
富士山は建物が邪魔して見られない。








◆清性寺跡・白狐稲荷社

こちらは清性寺お堂。


白狐稲荷社



清性寺の由来
 清性寺は江戸時代の初期よりあり「新編武蔵風土記稿」にも記録されております。その内容は、「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ1尺2寸立像なり。法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す。」とあります。歴代の住職の墓石の名前を見ますと、かなりな高僧であったことがわかり、権威の高さがうかがえます。境内には明治の初期までは、鐘楼もあったと言われ、寺の敷地はかなり広大であったものと思われます。
 清性寺の入り口にある「招魂碑」には千川上水の開拓者、千川家の名前を始め、多くの阿弥陀堂有力者の名前が刻まれている事が上げられ、阿弥陀堂との関係の深さを物語っています。又、清性寺と阿弥陀堂は一体であったものと判断できるものであります。この事をとらえ、双方の墓石などの年代を追いますと、清性寺には寛文二年(1662)の住職の墓があり最も古く、他にも寛文11年の尼さんの墓があり、330年以前の徳川時代初期から本寺が実在していた事が実証されるものであります。阿弥陀堂では寛文十二年(1672)のものが最も古く、創世期の清性寺、阿弥陀堂、双方の往時の歴史の重さが感じられます。
 又、現存する寛政四年の「下練馬絵図」を見ますと、本寺の規模も知ることができ、往時の賑わいを偲ぶことが出来るものであります。
 本尊不動像は、弘法の作とあり製作年度は不明ですが、この度の火災により、全体が焦げ、手は無いものの現存致しており、又、ご本尊以外にも比較的大きな弘法大師像、木魚等があり、同じ年代の作と思われます。この様な古い仏像は、北町ではこれ以外に実在せず、我が街の宝として大切に保存、後世に残さなければなりません。このために、お堂、稲荷社等を多くの関係者の努力により、この度再建をし、合わせて地域の皆様の幸せを願うものであります。

白狐稲荷霊石の由来
 白狐稲荷は白い狐が石に浮き出ている霊石で、徳丸の斉藤家から祭りこみを依頼されたものと言われております。
 斉藤家の由来によれば、これは、豊臣秀吉公の守り神であったが、慶長5年、関ヶ原の戦の際に、秀頼公から石田三成に渡したものだと言われ、戦いに敗れた石田三成は、越後に逃げ延びたが、大切なこの石を泊まった宿に預けてしまったため、捕まって死罪になったと言われております。もしこの霊石を、離さず持っていれば難に遭わなかったのではないかと言われ、その後は、この宿の災難よけの稲荷となっていたものだそうであり、斉藤家はその宿の子孫にあたります。










◆北町商店街

商店街♪
通りは旧川越街道。










◆北一商店街

商店街♪
こちらも通りは旧川越街道。









徳川綱吉御殿跡



この地一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。








◆富士橋跡

下は田柄川(暗渠)




右側に上記「徳川綱吉御殿跡」の碑が立っている。







続く。

2020/01/13 西台散歩 05 若木二丁目アパー/西台四丁目緑の広場/板橋西清掃事務所/徳丸一丁目西児童遊園/東第38号踏切/北町あおば公園

まだ南へ下る。
東武東上線の線路を渡ったあとは東武練馬駅周辺を散策する。




若木二丁目アパート

都営住宅。








◆西台四丁目緑の広場

このオブジェはなんだろう。。。



 この緑の広場は、ソフィア西台マンション建設に伴い、板橋区大規模建築物など指導要領に基づき、土地所有者より無償で板橋区が借り上げ、開放しているものです。







◆板橋西清掃事務所







◆徳丸一丁目西児童遊園







◆東第38号踏切









◆北町あおば公園









続く。

2020/01/13 西台散歩 04 観音堂/とりげつ坂/新道の坂/西台山不動尊/谷津坂/西台山円福寺/庚申塔(西台4)

ここでも徐々に南へ進む。
あまり大きな通りがない。
谷津坂の勾配はかなりあったなあ。



観音堂



二股の道右側が次の「とりげつ坂」。








◆とりげつ坂

こちらもgoogle mapには載っているが現地では標識など見当たらなかった。


こちらに詳しく載っている。
とりげつ坂(板橋区西台)
profile/とりげつ坂








◆新道(しんどう)の坂

こちらもgoogle mapには載っているが標識など見当たらなかった。


こちらに詳しく載っている。
新道の坂(板橋区西台)








◆西台山不動尊


庚申塔 他


水掛不動尊


参道入口








谷津坂

西台山不動尊から坂下方向。



西台山不動尊から坂上方向。
こちらもgoogle mapには載っているが現地では標識など見当たらなかった。


こちらに詳しく載っている。
谷津坂(板橋区西台)
profile/谷津坂








◆西台山円福寺


円福寺と雲版・月待板碑

 曹洞宗西台山を号し、文明十一年(1479)太田道灌が川越に開創し、慶長十三(1608)年にこの地へ移転した。
 かつては関東屈指の名刹、西台の大寺として知られ、慶安二(1649)年には幕府より寺領二十石の朱印地を与えられた。しかし、弘化二(1845)年の火災以降は往時の盛大さを取り戻せなかった。
 ここの寺宝として雲版と月待板碑が残されている。
 雲版は縦三十八・横三十五センチの青銅製で、太田道灌が当寺を創建した際、茶室に掛けたものと伝えられている。元来禅家の仏具の一種であるが、その豪壮な作風には目をみはらされるものがある。
 月待板碑は浄土信仰と月待信仰とが結合したとみられる遺物で、この板碑は文明十七(1485)年の銘があり、弥陀一尊画像を陰刻した芸術的香りの高い、都内でも有数の板碑といわれる。


園福寺の文化財

 圓福寺の寺宝については、天保七年(1836)、 江戸神田雉子町の名主であった斎藤幸成(月岑) が版行した『江戸名所図会』の中で、永正十年(1513)に圓福寺に宛てた多田彦六老母寄進状と、 太田道灌が茶室で使用していたとされる明徳二年 (1391)の雲版が、長谷川宗秀(雪旦)の挿画とともに紹介されるなど、江戸時代から広く知られていました。これらは圓福寺文書、明徳二年 雲版として区の文化財となっています。
 このほかの文化財としては、文明十七年(1485)の圓福寺月待画像板碑やコウヤマキがありますが、平成二十年には、寺所蔵の開基太田道灌像が、文化十四年(1817)に国学者小山田与清が記した『擁書樓日記』に見られる、江戸近辺 の道灌ゆかりの六ケ寺に納められた木像の一体で あるということが判明し、新たに登録されました。
 なお、これらは、弘化二年(1845)に起きた当寺の大火の被害を免れた貴重な資料です。


鐘楼


孔雀?

シートがあってよく見えなかったが、シルエットから孔雀だと思う。


円福寺コウヤマキ



 樹種、こうやまき(スギ科)。樹高、約20m。目通り、約290cm。根回り、約330cm。樹齢、約400年(推定)。
 この高野槙(こうやまき)は、円福寺が川越から西台に移転してきた当時、紀州高野山より移植したとの伝承があり、霊木として信仰を集めてきた。
 現在でも、十分な樹冠の広がりを持ち、生育の環境も良好で樹勢は旺盛である。また、樹種としても日本の特産種であり、区内でも珍しい巨木である。
 平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。









庚申塔(西台4)








続く。

2020/01/13 西台散歩 03 供養塔/庚申塔/京徳観音堂/西徳第二公園/阿弥陀堂の坂/円福寺宝蔵庵

やはりゆっくり南へ向かう。
まだまだ起伏が激しい。



◆供養塔








庚申塔








◆京徳観音堂



 宗派は曹洞宗で、ご本尊は聖観音坐像です。
 江戸時代、この近在に新義真言宗の水想山教徳寺(京徳寺)があり、観音堂はその教徳寺の持堂でした。明治五年(1872)、同寺が廃寺となると、圓福寺が管理する境外堂となり、現在に至っています。
 創建は不明ですが、本堂に架かる「武州豊島郡西台村教徳寺」との銘文がある鰐口(わにぐち)が延宝三年(1675)の作であること、ご本尊までは遡ると考えられます。
 境内の墓地には、「道用」と「性阿弥陀仏」が自身の死後の冥福を祈って延文六年(1361)七月十三日に建立した宝篋印塔二基があります。これらは、観音堂の創建以前に当所に仏教施設が存在していたことをうかがわせる資料です。
 また、貞享三年(1686)に死亡した寄合旗本の井上正昭とその子で貞享元年に死亡した井上正員父子の墓もあります。理由は判然としませんが、井上家で教徳寺へ葬られたのは、正昭・正員父子のみなので、正昭と教徳寺とが深い関係にあったことがうかがえます。
 この宝篋印塔と井上父子の墓は共に昭和六十二年度に板橋区登録有形文化財となりました。








◆西徳第二公園









阿弥陀堂の坂



右側に少し写っているのは次の円福寺
この坂もgoogle mapには載っていたが、標識などは見当たらなかった。


こちらに詳しく載っている。
弥陀堂の坂(板橋区西台)
profile/弥陀堂の坂







円福寺宝蔵庵








続く。