2024/01/11 武蔵砂川・中神散歩 02 見影橋/巴河岸跡/応急給水拠点(砂川中部浄水所)/東京都水道局 上砂水源/すずかけ橋・上水橋/稲荷橋

前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/11/173000




◆見影橋

下は玉川上水






見影橋と源五右衛門分水
 見影橋は、江戸時代から架かっていた古い橋です。 その頃は村を流れる玉川上水の、上流から四番目の橋だったので 「四ノ橋」とよばれました。 また、 名主の屋敷に近いこともあって 「旦那橋」ともよばれました。 大正時代に 「御影橋」となり、 今では 「見影橋」の字をあてています。
 橋が広げられるまでは、 たもとに明治初めの名主家当主の名前にちなんだ 「源五右衛門分水」 の取入口がありました。 今でも橋の南西下側にはその跡が残っており、見ることができます。


玉川上水緑道







◆巴河岸跡



 明治時代初め、玉川上水に舟を浮べ、物資を東京に運ぶことを、当時の砂川村の名主・砂川源五右衛門たちが政府に願い出ました。
 舟運は、明治三年(1870)に開始されましたが、衛生上の理由から、明治五年には廃止されてしまいました。
 この巴河岸は、玉川上水が舟運に利用されていた当時の船着場で、伊勢の人・巴屋某が船頭をしていたため、巴河岸とよばれるようになったと伝えられています。
 なおこの玉川上水の舟運利用が、現在の中央線開通の一因といわれています。








◆応急給水拠点(砂川中部浄水所)







◆東京都水道局 上砂水源








◆すずかけ橋・上水橋

別のページで。
2024/01/11 すずかけ橋・上水橋 - ovanの社会科見学







◆稲荷橋

下は玉川上水










続く。
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2024/01/11 武蔵砂川・中神散歩 01 武蔵砂川駅/残堀川旧水路跡/西武拝島線高架/新家橋/お社/お社/見影橋公園


24時間勤務アケで西武拝島線武蔵砂川駅からJR青梅線中神駅まで散歩。





武蔵砂川駅

西武拝島線武蔵砂川駅








◆残堀川旧水路跡

橋の向こう側は埋め立てられてる。



埋め立てられてる側。
この先が旧日産村山工場の跡地。








西武拝島線高架

武蔵砂川駅の下が通り抜けられる。



こちらを通って線路の反対(南)側へ。







◆新家橋

下は玉川上水






 屋号を「しんや」 と呼ぶ農家の裏に架けられている橋なので、 「しんやばし」 と呼ばれています。
また、砂川村の中で、一の橋と呼ばれた上流の天王橋から数えて三つ目の橋だったので、 「三の橋」とも呼ばれていました。
 「上水記」 寛政3年(1791) には、作場橋 (耕作地へ向かう橋)として書かれています。 その後、架替えや拡幅が行われ、現在に至っています。






◆お社



google mapに載っていなかった。
赤丸のところが上記の写真辺り。






◆お社








◆見影橋公園






続く。
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2024/01/08 昭和天皇記念館


国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内にある。
昭和天皇香淳皇后のご遺品を中心に保存及び展示を行い、昭和天皇のご生涯のご事蹟とご遺徳を偲び、皇室と国民の絆をより深く結びつける」ことを、目的として設立された記念館である。昭和天皇香淳皇后に纏わるお写真やご遺品、資料などが展示され、昭和天皇の歩まれた軌跡を振り返る「昭和天皇87年のご生涯」などの映像作品も上映されている。
管理運営は公益財団法人昭和聖徳記念財団が行っている。 』
昭和天皇記念館 - Wikipedia










◆屋外展示



皇居正門石橋飾電燈
 この青銅製飾電燈は、明治二十年(1887年)に正門石橋が架けられた際、その男柱石の上に設置された六基のうちの一基である。
 その後、昭和六十一年(1986年)に新しく制作された●柱の●●●設置に伴い取り外されたものを修復し、ここに移設したものである。
 また台座は、男柱石を縮小して復元したものである。

米●の部分は判読できなかった。




皇居旧二重橋「正門鉄橋」飾電燈及高橋
 この鋳鉄製飾電燈は明治二十一年(1888年)の皇房造営に伴う正門鉄橋の架橋と共にドイツで制作され、精詰に設置された四基のうちの一基である。
 その後、昭和三十九(1964年)の新宮殿造営と鉄橋の架け替えに隠して、取り外されたものを修復し、ここに移設したものである。
 また周囲の棚は、当時の橋詰の●●●●復元したものである。

米●の部分は判読できなかった。







HPはコチラ
トップページ - 昭和天皇記念館







休館日
月曜日(月曜日が休日の場合は直後の平日)
金曜日(令和3年10月1日より。祝日・休日は開館)
年末年始(12月31日・1月1日)
特別展示・企画展示開催期間の前後(約1週間)
国営昭和記念公園の休園日
とありましたが、行かれる方は事前にHPなど確認してからいてくださいネ!







場所はコチラ

2024/01/08 立川市役所


オブジェがたくさんあった。





◆おはなし

茂木弘行 作

『茂木 弘行(もぎ ひろゆき、1945年 - )は、日本の彫刻家である。新潟県出身[1]。新潟県立巻高等学校卒業[2]、東京芸術大学彫刻科を経て、東京芸術大学大学院を修了。1969年にはサロン・ド・プランタン賞受賞[2]。1971年には同大学助手となった。
WHOなどから作品依頼を受けて、1979年に、ニューヨークのドレーバー基金ロビー、ジュネーブのWHO本部に作品を設置した。
作品が、母校の巻高等学校の他に新潟駅新潟県立中央高等学校、立川市市役所玄関前、銀座花椿通り、姫路市シンボルロード、青葉台駅コンコース、城西大学などに設置されている。 』
茂木弘行 - Wikipedia



 昭和二十年八月に悲惨な戦争が終わってから五十年が経ちました。いま、立川市は平和の中で多摩地域における文化、経済、交通等の中心都市として発展をしています。
 私たちは、この平和も繁栄も悲惨な戦争のために犠牲となった多くの人々の上に築かれていることを忘れることができません。
 私たちは、世界の恒久平和のために一層寄与する市民の象徴として、ここに平和モニュメントを設置します。






◆鐘



1959年~1984年のサンバーナディノ市と日本の立川市姉妹都市友好関係 - 25周年を記念して-
この鐘は、信仰、力、安全の象徴で、偉大なるカリフォルニア州を建国した平和の人々により設立されました。
この鐘の姿と音色が、より素晴らしい明日への精神的希望を目ざめさせんことを祈ります。
昭和59年 9月15日 サンバーナディノ市25周年記念公式訪問団






◆一冊の街

小沢淳志 作






立川市デザインマンホール







◆一片の波

大槻孝之 作






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2024/01/08 阿豆佐味天神社・立川水天宮


『1629年(寛永6年)、のちに砂川村となる地域の開拓に伴い、その鎮守として瑞穂町の阿豆佐味天神社を勧請して建立され、1738年(元文3年)に本殿が造営された[2][6]。これは2019年現在、市内最古の木造建築物とされている。1862年文久2年)に拝殿が建設された。
1959年(昭和34年)に殉国慰霊碑が建設された[2]。その後、1961年(昭和36年)水天宮社を吸収合併し、境内社とした[2]。1970年(昭和45年)には本殿が立川市有形文化財に指定されている。
1950年代の砂川闘争では、住民や学生らの米軍基地拡張反対運動の拠点として使用された。 』



 砂川は、江戸時代初期に新田開発で拓かれたところで、阿豆佐味天神社は、寛永六年(1629)頃、村山郷殿ヶ谷(現瑞穂町)の延喜式内社阿豆佐味天神社より勧請されました。爾来砂川の鎮守として発展を見守ってきました。
 御祭神は、医薬・健康・知恵の神さまの少彦名命と、文学・芸術の神さまの天児屋根命のお二柱です。
 本殿は元文三年(1738)頃の建築と考えられており、昭和四五年(1970) 立川市有形文化財に指定、立川市内最古の木造建築物です。様式は、「一間社流造正面軒破風付こけら葺」といいます。
 現在は、拝殿後方の白い覆殿に収められています。拝殿は天保十年(1839)に着工し、文久二年(1862)に竣工、総けやき造りで、近郷まれにみる豪壮な建物と云われています。



阿豆佐味天神社本殿
 阿豆佐味天神社寛永六年(1629)頃現瑞穂町大字殿ヶ谷の本宮(延喜式内社)され、以来砂川村の鎮守と信仰さてきました。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)です。
 この本殿は、棟札により宝永五年(1708)に再建されたものと考えら、立川市内の木造建築物としては最古のものです。
 建築様式は 一間社流造で 正面は破風付 屋根は千鳥破風こけら葺きです。
 昭和五十五年(1980)に改修が行われ、本殿は後方の高い基壇上に移され覆殿に納められました。 平成三十年より御鎮座三百九十年を記念して木部の補修と彩色塗装が行われました。






◆ただいま猫







◆蚕影神社/八雲神社/疱瘡社/稲荷社/天神社/御嶽神社/浅間神社/金刀比羅神社/八坂大神社



蚕影神社(養蚕の神、猫返し神社)
八雲神社(厄除け)
疱瘡社(疫病除け、縁結び)
稲荷社(五穀豊穣、招福財福)
天神社(学問)
御嶽神社 (火難盗難除け)
浅間神社(縁結び)
金刀比羅神社(交通安全)
八坂大神社(疫病除け)

いろいろな神様がいらっしゃいますゆっくりとおまいりください



蚕景神社跡
蚕影神社は、養蚕の守り神とし蚕の守り神として、常陸国豊浦湊(茨城県つくば市)から、安政七年(1860)二月に勧請された、阿豆佐味天神社の本社です。
 この砂川地区では、すでに江戸時代の中頃から養蚕が行われていまし 幕末の安政五年に外国と貿易を始めるようになると、養蚕は著しく発展し、村の主産業になりました。そして明治から昭和にかけて、砂川の養蚕は最盛期を迎え、人々の生活を支えました。
 この蚕影神社によって、幕末に、砂川て養蚕が盛んに行われていたことがわかります。








立川水天宮



立川水天宮
(安産・子授けの守り神)
御祭神
天之御中主大神
安徳天皇
建礼門院
二位の局







◆手水







◆唐子手水鉢(からこてみずはち)



石材は五日市の伊那石
縦 四尺(120㎝)
横 四尺(120㎝)
高さ二尺(60㎝)
 幕末の弘化三年(1846)当地出身の小山奥左衛門が寄贈したものです。
 鶴見邑(現川崎市) の名工飯島吉六の作。
 手水鉢の四隅を四人の唐子が、片膝をついて担ぐという、全国でもほとんど例のない珍しい型式です。
 正面には「漱盤」と刻されてあり、「漱」とは、口をすすぐの意です。







◆淳国慰霊碑



昭和三四年(1959)建立
巾 七尺五寸(2m30㎝)
原 一尺三寸(40㎝)
高さ 二五尺( 7m65㎝)
 仙台石の一枚岩で作られた市内最大の石造物です。
 第一次世界大戦から第二次世界大戦の、砂川における戦没者・戦災死者の霊を慰めるため建立されたものです。二八八柱の方々が祀られています。
 当時、あまりの大きさに、石を運ぶトレーラーやクレーンを、米軍横田基地から借りた、という逸話が残っています。








◆神楽殿







◆石塔







◆鳥居







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2024/01/08 流泉寺




歴史と文化の散歩道
流泉寺
 砂川の新田開発にきた人々の寺として、江戸時代の初めに作られたのがこのお寺です。
 正式には「天竜山流泉寺」といい臨済宗建長寺派という宗派に属しています。
 明治時代には、ここが村の教育の中心となり、約三十年にわたって学校が設けられていました。 今の立川立第丸小学校の前身です。また、村役場がおかれたこともありました。
 現在は境内に多くの石仏や石造物松田開必来の先祖の霊をぐさめています。






◆薬師堂



薬師如来十二神将
 薬師如来は、「お薬師様」と親しみをこめて呼ばれます。薬師瑠璃光如来、大医王仏とも呼ばれ、あらゆる病苦を治癒してくださる仏様です。
 お薬師様はまだ修行中の折に十二の誓願を立てました。それらは病人を健康にする、貧しい人には食物や衣服を不足なく与える、目や耳をよくする、圧政に苦しむものを助けるなど、救済の手をさしのべてくださるものでした。死後浄土での平安を与えてくださる阿弥陀如来に対して、薬師如来は、生きている間に人々を救ってくださる現世利益の仏様です。
 お薬師様は、特に眼病を患うものに霊験があるとされ、又、安産息災を願う人々の信仰を集めております。
十二神将薬師如来の眷属で
十二人の武神の総称をいいます。
十二神将薬師如来が立てた
十二の誓願を象徴しているとされ
つねにお薬師様に寄り添っています。
又、方位や時刻の御法神として配置されます。
十二神将と十二支の関係は上の通りです。






◆鐘楼






◆慈光観音像






六地蔵






水子地蔵






◆小安傳先生碑



この碑は、 西砂川尋常高等小学校の初代校長(明治三三年大正九年)を勤め、地域の教育・文化の振興に多大の貢献をされた小安 博先生の功績をたたえ同校同窓会が建てたものです。






◆山門






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