2021/04/10 東中野散歩 06 新超泉/梅照院/薬師あいロード/中野北口十字路商店街/中野サンモール/中野駅

どんどん南下し中野駅でゴール。



◆新超泉

銭湯♪









◆梅照院

以前来たことがあるので今回は外からお参り。
2021/02/06 野方散歩 08 梅照院(新井薬師)/豊川稲荷/新井薬師門前通町栄会/中野サンプラザ/サンモール/中野駅 - ovanの社会科見学








◆薬師あいロード

商店街♪









◆中野北口十字路商店街

商店街♪
もう少し早く来れば桜が綺麗だったんだが・・・・。








◆中野サンモール

今回中は通らなかった。








中野駅

ゴールのJR中野駅



団地のあった場所、まだ基礎工事しているんだね・・・。



天気が良くて気持ちが良かった。
一度通ったことがある道がいくつかあった。
まだまだ行ってないところがたくさんありそうだなあ。







おまけ

自宅前の商店街。

2021/04/10 東中野散歩 05 西武新宿線踏切/庚申塔/薬師駅北口商店街/西武新宿線踏切/新井薬師前駅/薬師薬師駅商店会

西武新宿線の踏切を渡って線路の北側へ出る。
線路沿いに西へ進み、また踏切を渡って南側へ。



西武新宿線踏切

名前がどこにも書いてない・・・。



奥に写っているのが新井薬師前駅









庚申塔



近くにあった地図








◆薬師駅北口商店街









西武新宿線踏切



奥に写っているのが新井薬師前駅









新井薬師前駅


薬師平和の森散歩

 薬師平和の森散歩は、新井薬師前駅から高円寺駅までの約3.8kmのみちのりです。新井薬師の名で親しまれる梅照院薬王寺 弥生時代の住居を再現した平和の森公園・(中野刑務所跡地)をまわって、早稲田通りを通り高円寺駅に向かう散歩道です。

新井薬師(梅照院)と北野神社
 新井薬師は北条氏の元家臣梅原将監(うめはらしょうげん)、法名行春(ぎょうじゅん)によって天正14年(1586)に創建されました。 この寺は、江戸時代より子育薬師として有名で、毎月八の日に縁日が開かれています。また治眼薬師としても有名ですが、これは徳川二代将軍秀忠の姫君が眼病にかかり八方手を尽くしましたが効果がなく、この寺に祈願したところ快癒した、という話に由来しています。
 北野神社も行春の創建と伝えられ、境内には奉納されたカ石がまとめられています。いつごろから始まったかは知られていませんが、昭和初期までこれらの石で若者が力を競いあっていたものです。


薬師駅前商店会

商店街♪








◆薬師薬師駅商店会

商店街♪










続く。

2021/04/10 東中野散歩 04 桜ヶ池不動院/西国百ヶ所供養塔 羽黒山/弁財天女/上高田本通り商店街/細井家住宅主屋/「たきび」のうた発祥の地/土日画廊

前のエリアから少しずつ北へ移動。



◆東光寺別院桜ヶ池不動院










◆西国百ヶ所供養塔 羽黒山









◆弁財天女









◆上高田本通り商店街










◆細井家住宅主屋

建物はこちらの裏の方にあるみたいだ。
塀で囲まれていて撮れなかった。
こちらに写真と説明が載っていた。
細井家住宅主屋 文化遺産オンライン








◆「たきび」のうた発祥の地

何度か来ている。
2017/11/04 江古田散歩 10 上高田氷川神社/たきびのうた発祥の地/北野神社/紅葉川公園 - ovanの社会科見学



 今も人びとに歌い継がれる「たきび」のうたは、平成十九年(2007)文化庁の「日本の歌百選」に選出されました。
 この童謡の作詞家、巽聖歌(たつみせいか)(本名野村七蔵1905~1973)は岩手県に生まれ、北原白秋に師事し、多くの優れた児童詩を残しました。
 聖歌は、この詩が作られた昭和五、六年(1930、31)頃から約十三年の間、萬昌院(ばんしょういん)功運寺のすぐ近く、現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。 朝な夕なにこのあたりを散歩しながら「たきび」 のうたの詩情をわかせていたといわれています。
 歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、けやき の大木がそびえ、垣根の続くこの一角は、今もほのかに当時の面影をしのぶことがでる場所といえましょう。




お地蔵さんがいらっしゃった。








◆土日画廊

気になったので写真を撮ってみた。
公式のHPがあった。
土日画廊 | DONICHI GAROH








続く。

2021/04/10 東中野散歩 03 三の輪湯/北海屋/金剛寺/境妙寺/宝泉禅寺/万昌院功運寺/上高田氷川神社

三の輪湯まで北上した後は、南北へジグザグに移動しながら徐々に西へ向かう。



◆三の輪湯

銭湯♪










◆北海屋

駄菓子屋さん。
今度中へ入ってみたい。








金剛寺









◆境妙寺


サトザクラ









◆宝泉禅寺

宝泉禅寺=宝泉寺


板倉内膳正重昌(いたくらないぜんのかみしげまさ)の墓所

 この宝泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所があります。高さ約3mの五輪塔の中央には剱峯源光大居士、その右に寛永十五戊寅歳(1638)、左に正月朔日(ついたち)と刻まれています。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石史料としても貴重なものです。明治四十一年、牛込横寺町(新宿区)から移転してきました。
 重昌は、京都所司代(しょしだい)板倉重勝の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝(ふかみぞ)城主となりました。若くして徳川家康の近習(きんじゅう)となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」・「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと進んでいきました。
 寛永十四年(1637)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励(とくれい)し、反徒の鎮定(ちんてい)につとめました。しかし、強い抵抗にあって果さず、幕府は再び老中松平信綱を派遣して指揮にあたらせることにしたため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」を総攻撃し、自らも戦死をとげました。










◆万昌院功運寺

中へは入れなかったので外からお参り。


菩提所

吉良上野介義央
『吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。 』
吉良義央 - Wikipedia

水野重郎左衛門
『水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。』
水野成之 - Wikipedia
※重→十 だが、同じ人物で合っているだろう。

『旗本奴(はたもとやっこ)は、江戸時代前期(17世紀)の江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団、かぶき者である。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門(水野成之)。代表的な団体が6つあったことからそれらを「六方組」(ろっぽうぐみ)とよび、旗本奴を六方(ろっぽう)とも呼ぶ。同時期に起こった町人出身者のかぶき者・侠客を「町奴」と呼ぶ。 』
旗本奴 - Wikipedia

今川(一月)長得
『一月 長得(いちげつ ちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある。』
一月長得 - Wikipedia

歌川豊国
『初代 歌川豊国(しょだい うたがわ とよくに、明和6年〈1769年〉 - 文政8年1月7日〈1825年2月24日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。本名は倉橋 熊吉(くらはし くまきち)、後に熊右衛門。一陽斎(いちようさい)と号す。 』

『二代目豊国 : 豊国門下で養子となった豊重が、初代死後の文政8年(1825年)に二代目豊国を襲名したが、歌川派一門の中で物議を醸したという。通称「源蔵豊国」「本郷豊国」。別号に一陽斎、一瑛斎、後素亭。作品に「風流東姿十二支」、「名勝八景」など。
三代目豊国 : 豊国門下の歌川国貞が、天保15年/弘化元年(1844年)に二代目豊国を称した。上記と区別するため、彼を三代目歌川豊国とする。通称「亀戸豊国」。』
歌川豊国 - Wikipedia

栗崎道有
『栗崎 道有(くりさき どうう[1]、寛文4年(1664年)? - 享保11年10月20日(1726年11月13日))は、江戸時代中期の蘭学医。諱は正羽(まさゆき)。号は道仙。道有は栗崎家世襲の号で、「露」を意味するオランダ語dauw(英dew)に由来し、時に道宇とも書かれる。』
栗崎道有 - Wikipedia

林芙美子
『林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。 』
林芙美子 - Wikipedia


吉良家の墓所

この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正二年現在地に移ってきました。
幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定(よしさだ)・義弥(よしみつ)・義冬(よしふゆ)・義央(よしなか)の四代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花(うけばな)や笠部の墨飾突起(すみかざりとっき)は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。
義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。








◆上高田氷川神社



当、氷川神社は上高田一円の鎮守として享徳二年(1453)素戔鳴尊の御神徳を慕う土地の人々が、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、お社を建てたのを嚆矢といたします。長禄年間(1457~60)太田道灌は、しばしば当社に詣で、松一株を植栽したと伝えられております。この松は目の高さ幹回り約4mの御神木となり大切に保護されておりましたが、昭和十二年(1937)枯木となりました。また、正保年間(1644~48)に代官野村彦太夫為重が社殿の修復をしたと江戸時代「武蔵風土記」に記されております。古老の記憶によれば、大正初期(1912~20)本殿の規模は一間四方にて覆屋の下にあったとの事であります。当時氏子は100戸、境内地の面積は470㎡(142坪)の小規模な神社でありましたが、大正十一年(1922)氏子より土地の寄進を受け、境内地を広げ現在の形態へと発展いたしました。大正十二年(1923)に至り社殿新築の計画が立案され、直ちに着工、大正十五年十月(1926)遷座祭が執り行われ、今日の氷川神社の姿がほぼ完成いたしました。また昭和十年以降、手水舎、鳥居、石燈籠、手水盤、狛犬等の奉献がありました。当神社は不幸な太平洋戦争による戦禍はまぬがれたものの、戦後の混乱の中にあって境内の整備はゆきとどかぬままでありました。幸い敬神の念厚い氏子により昭和二十九年(1954)には神楽殿が新築され、以後大祭の復活など各種の復興整備が進められました。昭和六十三年(1988)に宿願の社務所が完成し、上高田一円の鎮守として神威をととえるに及んでおります。


八幡社/稲荷社/天王社/天神社


楽殿


鳥居1


鳥居2


前に一度来たことがある。
2017/11/04 江古田散歩 10 上高田氷川神社/たきびのうた発祥の地/北野神社/紅葉川公園 - ovanの社会科見学






続く。

2021/04/10 東中野散歩 02 高徳寺/東中野銀座/正見寺/中野消防署中野出張所/百番巡礼供養塔/落合駅/松の湯

早稲田通りを東へ移動。
落合駅後は細い路地に入り北へ向かう。



龍興寺









東中野銀座

中は通らなかった。








◆正見寺

中へは入れなかったので外からお参り。









◆中野消防署中野出張所








◆百番巡礼供養塔




近くに咲いているツツジが綺麗だった。








落合駅

東京メトロ東西線落合駅








◆松の湯

銭湯♪








続く。

2021/04/10 東中野散歩 01 東中野駅/アクア東中野/染井吉野の歌碑/健康浴泉/青原寺/源通寺/高徳寺

24時間勤務アケで、かかりつけのお医者さんに行ってから東中野へ移動。
JR東中野駅から東京メトロ落合駅西武新宿線新井薬師駅経由でJR中野駅まで歩く。



東中野駅北側エリアを散策。
細い路地を北西へ向かって歩く。
急にお寺がたくさんあるエリアへ突入した。



東中野駅

スタートのJR東中野駅











◆アクア東中野

銭湯♪









染井吉野の歌碑

いつみても 染井吉野
  平らかに 女王の如く美しく咲け 
               青嵐


さくら並木の由来

 このあたりは、古くからさくらの名所とうたわれ、 八重ざくらが山一杯に咲きほこっていました。しかし残念なことに、そのさくらは戦災によってすべて枯れてしまいました。
 昭和二十九年、元のさくらの山をよみがえらせたいと、地元の方々が埼玉からソメイヨシノの苗木を購入して植付けました。
 皆さんが大切に育てた努力が実って、今では毎年、美しい花を見せてくれる大きな桜の木に成長しました。
 昭和六十二年には、特にその功績が大きかった東中野桜並木保存会が「日本さくらの会」より表彰されました。
 このさくら並木は、近隣はもとより、車窓を通して電車の乗客の方々の心も和ませてくれる地域のシンボルとなっており、お花見の季節には、毎年さくら祭が盛大に開催されています。










◆健康浴泉

銭湯♪










◆青原寺


鐘楼









◆源通寺


河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の墓所

江戸時代末から明治の中頃に活躍した大劇作家、河竹黙阿弥(本性吉村、二代河竹新七、(1816~1893)の墓所が、当寺の墓地入口にあります。
黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三(さんにんきちざ)」や「白波(しらなみ)五人男」などの盗賊を主人公とした生世話狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道をひらきました。
しかし、幕府が写実的傾向を禁じて勧善懲悪を奨励したため、黙阿弥は作風の転換を強いられ、その後、幕末・維新期の激動する社会のなかで、江戸時代後期の歌舞伎の創作法を整理・集大成し、「真に江戸演劇の大問屋」と坪内逍遥に評される仕事をなしとげました。
黙阿弥の作品は、四代市川小団次をはじめとする歴代の名優によって演じられました。
明治四十一年、当寺が移転したとき黙阿弥の墓も浅草から移されました。









◆高徳寺


新井白石

 江戸中期の朱子学者、政治家。名は君美(きんみ)、通称 勘解由(かげゆ)、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永六年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房(まなべあきひさとともに家宣を補佐。正德の治を開き、教学と政治の一致につとめた。武家諸法度改訂、貨幣改鋳、海舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事績である。享保元年(1716)引退。学者として特にすぐれ合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩翰譜(はんかんふ)」「読史余論(どくしよろん)」「西洋紀聞(せいようきぶん)」「采覧異言(さいらんいげん)」「折(おり)たく柴(しば)の記」など。








続く。

2021/04/08 西尾久散歩 12 右 西新井大師堂/下田端ガード/東田端商興会/東日本旅客鉄道株式会社/新田端大橋/田端駅

南へ進んで東北線のガードをくぐる。
その後は田端駅へ向かいゴール。



◆右 西新井大師

google mapには「右 西新井大師堂」とあるのだが、他の面にもいろいろ書いてあった。
新しいがいつ頃建てられたもので、どういった経緯があるのかまでは調べられなかった。


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東北線(47)下田端ガード

くぐってすぐのところに踏切「第二下田端踏切」があった。












◆東田端商興会

商店街♪











東日本旅客鉄道株式会社東京支社

東日本旅客鉄道東京支社(ひがしにほんりょかくてつどうとうきょうししゃ)とは、東京都北区東田端2-20-68にある東日本旅客鉄道JR東日本)の支社の一つ。 』
東日本旅客鉄道東京支社 - Wikipedia









◆新田端大橋
[image
下はJR。
こちらは車道側。



歩道側。



歩道側は「田端ふれあい橋」とあった。
一度日記にしている。
オブジェなどがいくつかあって、その時に記事にしている。
2018/09/11 王子散歩 09 鉄道神社/東灌守稲荷神社/東田端公園/石碑/田端ふれあい橋/田端駅 - ovanの社会科見学










◆田端駅

ゴールのJR田端駅。








そんなに歩いた気がしなかったけど、だいぶ史跡を巡ったんだね・・・・。
途中から膝が痛くなった(w
歳だなあ。
今度から30分くらいはどこかで休みを入れていこう。
高低差はなく公園もたくさんあったので、歩きやすいはずだったんだけど。
1週間くらい前にコケて膝を打ったのがいけなかったかなぁ。