2019/06/05 新宿西口イベントコーナー「くらしと測量・地図展」

24時間勤務アケで、細君と新宿西口イベントコーナーでやっていた「くらしと測量・地図展」に行ってきた。
いつも思うのだが、新宿西口イベントコーナーはコアなものをやってるときがある(w
しかし平日なので普通に会社勤めしている方は無理だね・・・・・。







いろいろな地図や測量に関する資料などが展示されていた。
地図に関する会社や機関がたくさんあることにビックリする。










平成最後の・・・・。

御苑の右下に見えるのが新国立競技場。




取り壊される前の国立競技場



取り壊されてほぼ更地になったときの競技場



屋根ができる前の競技場



最近の競技場(建設中)




こういう建設現場を空から撮れるのはいいね!
いつも中央線から横を見てるだけだものなあ・・・・。




他にも様々な地図などが展示されていたが、
ほぼ門外漢なので詳しいところまでわからない(w
ただ、地図や測量技術は生活に欠かせないものであることはよくわかる。
良い展覧会だった。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 06 東京医科大学校歌碑/新宿医薬守護神社/東京医科大学病院/新宿アイランドタワーLOVEオブジェ/策の井(むちのい)

西新宿エリアを東へ進み、新宿駅到着。
ずーっと行きたかった恋弁天(出雲大社分祀)はまだ工事していて見られなかった。
2016/10/24 part1 新宿中央公園付近を散策 - ovanの社会科見学
この時にはすでに見られなかった。
3年以上工事が続いているんだね・・・。



東京医科大学校歌碑

  建碑のことば
本校歌は大正十四年(1925)土井晩翠氏により作詩 平野主水氏により作曲された 以来本学々生同窓生に広く愛唱されその士気を鼓舞してきた 子年は本学創立70周年 新病院の落成および維持会設立35周年に当りこれを記念し本歌碑を母校に寄贈 永く後世に伝えることとした




◆新宿医薬守護神社




東京医科大学病院の敷地内にあった。




東京医科大学病院




新宿アイランドタワーLOVEオブジェ

ドラマとかでよく出てくるところらしいが、僕はあまりドラマを見ないのでわからない(w




◆策の井(むちのい)




 当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(1681~1683)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(1716~1735)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。





新宿駅に到着し、散策終了。
西新宿エリアは何度か来ているとことなんだけど、以前google Mapのマークがついていなかったところもあり、新しい発見があった。
MAPもどんどん進化しているんだね・・・・・。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 05 羽衣橋/柳橋/十二壮熊野神社/新宿中央公園/東京都庁/新宿韋駄天尊

西新宿エリアに突入。
人が多くなるし建物が急に高くなる。




◆羽衣橋



以前来たことがある。
2018/03/04 中野坂上散歩 02 羽衣橋/羽衣湯/柳橋跡/宝橋/長者橋/長者橋公園/里程標No25 - ovanの社会科見学





柳橋








以前来たことがある。
説明などはそちらをご覧ください。
2018/03/04 中野坂上散歩 02 羽衣橋/羽衣湯/柳橋跡/宝橋/長者橋/長者橋公園/里程標No25 - ovanの社会科見学




◆十二壮熊野神社

結婚した時に写真を撮って神様にご報告した想い出の神社。


結婚した時以外にも一度来ている。
2016/10/24 part2 熊野神社 - ovanの社会科見学





新宿中央公園

再訪してこの時巡った場所以外にも撮影したので、一つのページにまとめた。
2023/10/04 新宿中央公園 - ovanの社会科見学





東京都庁




◆新宿韋駄天尊

韋駄天尊は、増長天八将軍の一官として 甲冑に身を固め走る事疾風の如しと称され 仏法 衆生 交通の守護神として霊験あらたかなりと驚き信仰を集む
ご本尊は江戸中期の作とされ 上州翰林の城主秋元丹波守礼朝公の守護神として当初江戸浅草に祭祀され 明治三年同公の下屋敷たる当地に遷座さる
その後広く地元の信仰を集め 大正八年 八坪の独立仏堂となるも第二次世界田陰線の末の空襲により昭和二十年五月焼失破壊さる
戦後の混乱もしばらくおさまりたる昭和三十年 地元に復興の機運高まり 本尊は仏画の大家宮原柳遷画伯の揮毫により 名工草野氏が仙台石に彫刻し 堂宇は大工頭領平田七五郎氏により総桧造りを持って再建さる 
以来三十年の星霜を経て 当地区は東京新都心として超高層ビルが林立し かつ都庁舎も近く当地へ移転する時代を迎えんとす
ここに環境にふさわしい近代的堂宇を新築申しあげ韋駄天尊が永劫に当地の守護神として御加護賜らんことを祈念す


堂宇=『堂の建物。外部の人間が使う「お堂」に対して、寺院関係者などの内部の人間が使う語。』



蛯子(うばこ)稲荷大明神



野村専太郎・ます供養塔

韋駄天尊のご本尊は江戸中期の作とされ 明治 大正 昭和にわたり野村家が当地区の皆様とともに御守役を務めてまいりました
このたび 都庁舎移転先が西新宿に決定されたのにともない 政治 経済 交通の中心としての新都心及び関係各位の将来を永劫にご守護賜わるべくここにご尊像を新築申し上げ 併せて精神的憩いの場ともなりますように 健康と長寿に恵まれている野村専太郎夫妻が衷心より韋駄天尊に対し感謝と奉仕を捧げる姿をご奉納申し上げる次第であります




続く。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 04 弁天橋/二軒家橋/清水橋/大関橋/二軒家公園/柳狸/羽衣湯

先程のエリアから新宿に向かって北西に進む。



◆弁天橋












◆二軒家橋








◆清水橋




国旗掲揚塔で「皇太子殿下御降誕記念 二軒家町会」と刻まれている。







関係の遺構だと思われる。





大関




◆二軒家公園




◆柳狸




かなり小さくて探しちゃった・・・・。





◆羽衣湯

銭湯♪


前にこの辺りを散歩したことがある。
2018/03/04 中野坂上散歩 02 羽衣橋/羽衣湯/柳橋跡/宝橋/長者橋/長者橋公園/里程標No25 - ovanの社会科見学




続く。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 03 六号通り商店街/六号坂通り/六号坂上公園/新道橋/幡ヶ谷新道公園/幡ヶ谷氷川神社/栄一稲荷大明神

幡ヶ谷駅北側に到着。
さらに北を目指す。



◆六号通り商店街






◆六号坂通り






◆六号坂上公園






◆新道橋









◆幡ヶ谷新道公園




◆幡ヶ谷氷川神社



境内社

全部で4社あった。
下の写真は左から順番に撮った。


大鳥神社/榛名神社


厳島神社


稲荷神社



楽殿



鳥居1


鳥居2




◆栄一稲荷大明神







続く。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 02 幡ヶ谷第二公園/武の湯跡/七号通り公園/幡ヶ谷ひだまり公園/親王幡弐不動尊/観音湯/六号通り児童遊園地

だいぶ幡ヶ谷駅に近づく。
あまり史跡がないエリアだった。




◆幡ヶ谷第二公園

水飲んで少し休んだ。




◆武の湯跡

ワリと最近廃業した銭湯だね。
コインランドリーだけはまだやっている。





◆七号通り公園




◆幡ヶ谷ひだまり公園





親王幡弐不動尊





鎌倉時代の作とされてます)
厨子(ずし)の中のお不動様は長いこと、和歌山県高野山親王院に安置されてい有りましたが、ここ幡ヶ谷の地にてお祀りするご縁を頂きました。
親王院は弘法大師空海のお弟子の一人、真如法親王によって開基された千二百年の歴史のあるお寺です。
お墓が遠くにあってなかなかお参りに行かれない方もこちらのお不動様をお参りください。
きっと皆さまの思いや願いを御先祖様に届けてくださいます。
皆様のお心が平安に満たされますように





◆観音湯

銭湯♪





◆六号通り児童遊園地




続く。

2019/06/03 幡ヶ谷散歩 01 笹塚駅/栄湯/笹塚東公園/清岸寺/笹塚橋跡/庚申塔・馬頭観音/神橋跡

24時間勤務アケで、笹塚駅から幡谷駅北側エリアを通って新宿まで散策。
この日記のエリアは笹塚駅北側を京王線沿いに東に移動。




笹塚駅

スタートの京王線笹塚駅





◆栄湯

銭湯♪




◆笹塚東公園




◆清岸寺



清岸寺本堂

 清岸寺本堂は、明治三十二年(1899)頃に千葉県岩井町市部(現南房総市)の今村正次が建てたもので、通称岩井御殿と呼ばれていました。昭和二十年(1945)五月の空襲により本堂を失った清岸寺は、昭和二十四年にこの岩井御殿を譲り受け、同二十六年に移築してきたのです。
 本堂は、単層切妻造(たんそうきりつまつくり)の瓦葺きで、南側に面して建てられています。本堂は仏間のある西側の六室が中心であり、東側三室の附属部からなっています。各部屋の境界には大きな鴨居が設けられ、襖(ふすま)あるいは障子が立てられています。全体には一見幅の広縁(ひろえん)が廻り、南側には本体部中央に二、五間幅の附属部分、その前方には四間幅の玄関が付きます。もともとの建物の部材の痕跡から、住宅を仏堂に移築・改造したときに、仏間部分を立派にするために、柱がスギから太いケヤキに交換されたことがわかります。
 移築後は、昭和四十五年ごろに瓦の葺き替えが行われたほか、現在にかけて順次、主体部と附属部との境界の収蔵、附属部の客用玄関の拡張、脇陣天井の改造などが行われました。
 清岸寺本堂は、住宅を仏堂に転用した事例として、かつ明治期における高級な住宅の姿を知ることの出来る事例として貴重な建造物といえます。




浄霊殿




瘡守(かさもり)稲荷




祭祀の由来や年代の詳細は不明ですが、江戸時代よりこの地にお祀りされている稲荷神です。
 古くから難病と恐れられていた疱瘡(天然痘)をはじめ、皮膚病(できもの・腫れ物)などに御利益があると近隣の人びとから厚く信仰されていました。
 「祈願の際には土の団子を供え、全快したときには、本物の米の団子を供えてお礼詣りをする」という言い伝えがありました。そのため、明治の末まで境内に二軒の団子屋があったそうです。昭和の初めごろまでは常に小皿にもった土の団子が供えられていました。お供えする土の団子は、必ず「境内のものでない土」を用いたといわれています。







水上忠蔵(みずかみちゅうぞう)先生追慕碑





 この追慕碑は、幡代小学校の前身である白水分校の教員で、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられた水上忠蔵先生の教え子が、明治四十五年(1912)四月七日に建立したものです。このたび、幡代小学校の開校百三十周年にあわせて説明板を設置しました。
 先生は、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられましたが、生徒の指導はもとより、校長をよく補佐し、幡代小学校には、なくてはならない存在でした。
 また、教育に関しては、とても厳格であったようです。先生の没後、二十余年を経過しましたが、教え子たちは先生に対する尊敬や親しみを思い出し、それを後輩たちに残すことを目的として、清岸寺の境内にこの追慕碑を建立しました。先生は、明治二十四年(1891)一月十八日に六十一歳で亡くなりましたが、先生と生徒の結びつきや愛情の深さを知ることができます。







板碑/念仏供養塔/庚申塔  五輪塔




 本堂の左手に建立された幡ヶ谷聖観音の右丁にある板碑は、室町時代の応永四年(1397)八月二十八日の造立で、上部の二条線の下に「阿弥陀如来」を表す凡事が彫り込まれています。板碑は墓塔ではなく、一種の卒塔婆で、材質は秩父産緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれる緑がかった石を使っています。板碑は本区には数少ない中世の資料です。
 墓地の入り口の右手には六地蔵があり、その背後の一段高いところに、舟形の光背に浮彫りとなった地蔵尊(二基)があります。光背に「為念仏諸衆二世安楽」「武州万念仏供養」などと刻まれていることから、江戸時代には幡ヶ谷(「畑ヶ谷」とも書いた)や代々木村に念仏講があり、その講中により建立されたのがこの念仏供養塔です。
 念仏供養塔のとなりにある浮彫りの猿型半跏像(さるがたはんかぞう)片ひさを立てた坐像)は庚申塔です。このような形態をした庚申塔は、区内では非常に珍しいものです。



五輪塔
 五輪塔は、平安時代末から見られる墓石などで、古いものとしては平泉中尊寺仁安(にんあん)四年(1169)の銘のある五輪塔が確認されています。
 区内では、江戸時代の大名墓地に五輪塔が多数存在しますが、清岸寺に所在する五輪塔は、形態から制作年代不明ながら中世(室町時代)にまで遡るものです。風化や摩滅によりわずかに水輪に梵字が判読できるものが一基あります。四基の材質は、安山岩製のものが二基、砂岩製のものが二基となっています。
 清岸寺は、もとは現在の(社)東京乗馬倶楽部(代々木神園町4番)付近に所在していましが、代々木練兵場の建設によって、廃仏毀釈で廃寺となった法界寺跡に移されました。これら五輪塔が法界寺にあったものか清岸寺から移ってきたものか、来歴についての詳細は不明です。
しかしながら、本五輪塔は中世にさかのぼるものとして希少であり、中世資料の少ない当区にとっては極めて重要なものです。





魚籃(ぎょらん)観音



二十三観音の一つ。
魚の入った籃を持つお姿の観音様。悪鬼・毒竜などで例えられる暴悪なもの、恐ろしいものの害を取り去って下さる観音様として知られている。 
 
大変古い観音像であり、渋谷区では清岸寺だけにある。




酒呑地蔵




 この地蔵は、江戸時代の宝永五年(1708)にたてられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。
 むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は、故あって家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど、一生懸命に働いたといわれています。
 瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りして来ました。
 平成二十三年一月十日に本町五丁目の地蔵橋のたもとから清岸寺に遷座し、二月十九日に開眼供養が行われました。新たなお堂も建立され、安住の地となりました。











◆笹塚橋跡




下は暗渠だね。





庚申塔馬頭観音






 堂内には庚申塔がまつられています。ここの庚申塔は、天邪鬼(あまのじゃく)もふまえた六臂(ろっぴ)(手)の青面金剛立像で、庚申講の人々によって明治五年(1872)に造立されたものです。庚申講とは、昔の暦に使われた庚申の夜、講の人々が集まり、念仏を唱えながら夜明けを持つ信仰で、無病息災を祈りました。
 また、正面金剛像は恐ろしい疫病から村人を守ってくれるものと信じられていました。
 庚申堂の右前に、馬頭観音を刻んだ石碑があります。これは観音菩薩の一形態であり、農村時代には農耕や運搬に重要な役割を果たす馬を守ってくれるものと信じられ、大正十一年(1922)に造立されたものです。
 二体とも造立の年代が比較的に新しいことから、江戸時代にはじまったこれらの信仰が長く続けられてきたことがわかります。
 平成五年六月八日に、庚申塔建立百二十年を記念して、老朽化したお堂は、新しく建て替えられました。地域の方々の厚い信仰により、今日に至るまで庚申塔は、大切に守られているのです。

※少し字がかけているかもしれません。







◆神橋跡

こちらも下は暗渠だね。








続く。