2019/08/12 杉並成田散歩 02 冨智稲荷神社/稲荷社/松林寺/公務員団地/杉並高井戸東郵便局/五日市街道モニュメント/大塚児童遊園

ほぼ真北に進む。
少し雨がぱらついたのでダイソー高井戸店で雨宿り。
ちゃんと買い物もしたよ(w



◆冨智稲荷神社



◆稲荷社



◆松林寺




 柏邑(はくゆう)山松林寺は、曹洞宗の寺で、千手観音像を本尊とし、閻魔王像も安置されています。
 文禄二年(1593)、中野成願寺五世葉山宗朔(ようざんそうさく)によって開創され、開基正林寿慶庵主(しょうりんじゅけいあんじゅ)の名に因んで「正林寺」と称していました。しかし、正徳三年(1713)、四世竜光の代に寺名を「松林寺」と改めています。その頃は、当寺の周辺に松がとくに多かったからだといわれます。また開創時の当寺は、小字堂の上・堂の下・寺前と称された辺り(現堂ノ下橋北側)にありましたが、程なく現在地(旧小字正用(しょうゆう))に移ったと伝えられています。
 文化財としては、室町中期の板碑をはじめ江戸初・中期の庚申塔・地蔵石像・観音石像など多くが保存されています。
 なお、当寺は大正三年田端(現成田西三丁目)にあった同宗の全福寺を合併しています。



鐘楼



庚申塔など



山門



山門外



◆公務員団地




◆杉並高井戸東郵便局




◆五日市街道モニュメント




 この前の道は、五日市街道です。
 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで、青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵をとおり武蔵野市小金井市を経てあきる野市に達する街道です。
 江戸時代初期は伊奈道とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。
 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。
 『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約5.4メートル)程で狭く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(約14.4メートル)とあります。これは3ヶ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡げたものと考えられます。
 明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約57キロメートル(杉並区内約8キロメートル)が都道主要地方道杉並あきる野線)に指定されています。
 武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。
 かって道行く人々を暑さから守ってくれた欅並木も今は残り少なく、往時の姿は望めませんが、本街道はこれからも地域の道路として、重要な役目を担っていくことでしょう。




五日市街道



◆大塚児童遊園




続く。

2019/08/12 杉並成田散歩 01 高井戸駅/高井戸駅前歩道橋/KENKOマヨネーズ/高井戸市民センター/高井戸東遺跡/杉並清掃工場/高井戸保健センター

24時間勤務アケで、高井戸から荻窪まで散歩。


高井戸駅から北東に進む。


高井戸駅




高井戸駅前歩道橋

高井戸駅直結と言っていいくらいだね。




すぐ脇は高井戸駅




駅の反対側。




◆KENKOマヨネーズ

東京本社とのこと。



◆高井戸市民センター



高井戸市民センター誕生

 昭和三十五年頃の日本は高度経済成長で、大量生産・大量消費の使い捨ての時代でありました。当然のこととしてごみが大量発生し、更に工場排煙や自動車の排ガスによる大気汚染がひどくなり、杉並区内でも光化学スモッグによる被害が続出しました。この様なとき昭和四十一年十一月、清掃工場を高井戸のこの地に建設することが発表されました。しかし、この計画には公害不安、法的二重決定、立地条件など多くの問題があったため、地元周辺住民は一致して計画の取り消しを求めて東京地裁に提訴いたしました。原告は周辺住民約五千三百人と地主団十七人、被告は東京都で、東京ごみ戦争へと拡大されました。その後、東京地裁の和解勧告により、双方が「和解条項」を合意することで、十年にわたる東京ごみ戦争は終結しました。
 この和解条項の内容は非常に画期的で、その後の清掃工場の建設や運営にあたっては住民参加を尊重することが基本となっております。和解条件の一つとして、工場余熱を利用した利便施設を地元住民に提供することで、温水プール・健康増進施設・図書室・集会室などを工場敷地の一角に建設したものであります。この頃、杉並区では長期計画を策定し、区民センターを七か所建設する計画がありましたので、区としてはこの利便施設を是非、区民センター・老人福祉センター(現在の高齢者活動支援センター)・温水プールなどの総合施設として管理運営を譲ってほしいとの申出がありました。
 原告側は協議の結果、「和解条項」を尊重することを前提に同意いたしましたので、高井戸市民センターが誕生することになったものです。
 ここに開設二十周年を記念し記します。




◆高井戸東遺跡

上記市民センターの一角に説明板が建っている。




 この遺跡は、杉並区高井戸東三丁目七番の高井戸市民センター及び清掃工場を中心とし、神田川北岸の台地上に東西に広がりをもつ旧石器時代から縄文時代古墳時代・江戸時代に至る複合遺跡です。本遺跡の推定範囲は西側が区立高井戸小学校付近、東側が清掃工場東端付近であろうと考えられます。
 本遺跡は、昭和五十一年に清掃工場建設に伴う区道付け替えのために発掘調査されたもので、関東ローム層第9層中から出土した局部磨製石斧は今から28,000年前の石器であるとされ、出土した石器類の一部は区立郷土博物館に常設展示されています。
 発掘調査によって出土した遺物としては、局部磨製石斧の他にナイフ形石器・スクレイパー(掻器)等、遺構としては、縄文時代早期(約八千年前)の炉穴(屋外炉)、後期(約3,000年前)の石棒が埋納されていたフラスコ状ピット(墓)、古墳時代では7世紀頃の住居跡、中世(室町時代頃)では地下式横穴墓、近世では下駄・桶等の木器が出土した深さ6メートルの井戸跡等が発見されています。
 高井戸東遺跡は、神田川のような小河川流域にありながら都区内部では最大級の旧石器時代遺跡として全国的にも知られ、武蔵野台地上では標式的な遺跡とも言え、杉並区における旧石器時代遺跡発掘調査の出発点となった、とも言える遺跡です。




◆杉並清掃工場




◆高井戸保健センター





続く。

2019/08/10 ウェザーニューズ 会社説明会

24時間勤務アケで、友人と海浜幕張にあるウェザーニューズへ。
今年も株主でいることができたので、参加することができた!




いつものように海浜幕張幕張メッセでイベント。
ウェザーニューズ社さんへはシャトルバスが出ている。




]
24階入り口前の子の天井の丸い点は、ウェザーニューズ社が設立した1886年の惑星の配置なんだそうだ。
今まで何度か来たことがあるけど初めて聞いた!



やっぱり景色が良い。



スタジオ

ウェザーニュースLiVE Ch.|ウェザーニュース
こちらの番組を作っているところ。


今台風が2個近づいているので車内はかなり緊迫しているとのこと。
天気予報もちゃんと当たってるかの検証もしていて将来に役立ててるそうだ。
他社と比較しても高い確率で天気を当てているのはスゴイ。





幕張メッセに移動後パネル展示や体験などを・・・。

天気図書いてみた。
難しいねー。
天気記号なんてとっくの昔に忘れたよ(www
久々に頭を使った・・・・。




今年も楽しく見学させていただいた。
来年もまだ株主でいられますように♪




今までウェザーニューズ社さん関連の見学会、イベント

2012/02/25 しらせ乗船とウェザーニューズ見学 - ovanの社会科見学

2015/10/14 part1 南極観測船「しらせ」 - ovanの社会科見学

2017/08/11 ウェザーニューズ 会社説明会 - ovanの社会科見学

2017/08/19 船橋マリンフェスタ/ハイサワーガーデン - ovanの社会科見学

2018/08/11 ウェザーニューズ 会社説明会 - ovanの社会科見学

2019/06/09 船橋マリンフェスタ - ovanの社会科見学

2019/08/06 阿佐ヶ谷七夕まつり

24時間勤務アケで、一人で阿佐ヶ谷七夕祭りに行ってきた。



JR阿佐ヶ谷駅

こちらは南口


阿佐ヶ谷パールセンター

メイン会場となる阿佐ヶ谷パールセンター










他はアルバムで!
20190806 阿佐ヶ谷七 - ovanrei's fotolife



過去の阿佐ヶ谷祭りの写真があった!






覚えているのも何個かあった(w
毎年の事だがやっぱり暑いねー。



この後何がどうしたかわからないが、頭痛になってしまい・・・・。
体温も37.3度あり・・・・・。
体調を崩してしまったのでありました。

2019/08/03 国立極地研究所 一般公開

24時間勤務アケで、友人と立川にある極地研究所へ行ってきた。
江戸東京たてもの園の予定だったんだが予定変更!






スペシャル・トークセッション「南極隕石発見50周年」

最初に国立極地研究所准教授南極隕石ラボトリー責任者の山口亮(あきら)さんの講演。

第十次南極観測隊が日本の観測隊として初めて南極で隕石を発見して今年で50周年!
50年前、1969年アポロ11号が月面から石を持ち帰り、アエンデ隕石、マーチソン隕石が落下、回収できた年でもあったため、☆宇宙かがく物質の夜明けと言われているそうだ。
☆今調べてもWEBで出てこなかったので「科学」「化学」どちらが正解かわからなかった。

南極が特に隕石の落下が多いわけではなく、氷があるおかげでよく見つかるんだとのこと。
氷の上に黒い物が落ちているので見つけやすいんだとか。


次に、「製硯師(せいけんし)」青柳貴史 さんの講演。

製硯師とは硯(すずり)を作る人のことである。
なんと月の石で硯を作ったとのこと!?
山口さんに出会い、隕石を分けてもらったんだそうだ。
ちょっともったいないような・・・・(w



最後、月の石ですった墨で山口さんに・・・・

いいね!


月の石の硯





その他この講演で取ったメモ。
地球の歴史を1年とすると人類の誕生は12/31 20:12 とのこと。
地球に落ちてくる物質の量は3~4万トンで、そのほとんどは小惑星帯から来ているとのこと。


極地研にある隕石庫はクリーンルームでほこりが舞わないように床がベタベタしている。
隕石の中で「コンドライト」と呼ばれるものは、45憶~46億年前にできた太陽系の中でも古いもので、太陽系形成の起源の鍵を握っているといわれている。

青柳さんは硯にする前に石を舐めてみるそうだんだが、月の石は「きなこ」の味がしたとのこと。




その他いろいろ体験したりパネル展示を見ましたが、やはり来るたびに変わってる。
今年も楽しい見学ができた。
贅沢をいうともう少し涼しい時期にずらしてもらえると僕のようなおじさんには助かるね(w
基本子供向け夏休み企画みたいなものだからしょうがないんだけど・・・・・。

2019/08/01 永福町散歩 03 和泉熊野神社/和泉貴船神社/大宮八幡宮/松ノ木遺跡/高射砲陣地跡地

北上!
緑地が多くなるが暑かった・・・。



◆和泉熊野神社




 当社は旧和泉村の鎮守で、現在も「和泉の鎮守さま」として、人々に親しまれています。祭神は天御中主命伊弉諾命・伊弉冉命で、明治7年には村社となっています。
社伝によれば、文永四年(1267)に紀州熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安七年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大いに社殿を修めたと伝えられています。
 江戸時代には寛永十六年(1639)と元禄九年(1696)の両度にわたって社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久三年(1863)の造営で、明治4年に修覆したものです。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「除地300坪、村の北の方にあり、屋二間四方、本社五尺四方、拝殿2間半に二間、社前に木の鳥居を立」と述べています。
当社の境内からはかって縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかります。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえています。
 例祭日は9月第2日曜日です。



境内社

詳細がわからなかった。




稲荷神社



楽殿



和泉熊野神社クロマツ






 社殿横の本クロマツは、幹周(目通り)3.1m、根本周囲6.3m、樹高(目測)は17mあり、樹齢は250年以上と推定されます。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で葉は大きく、樹皮が黒褐色を帯びています。近年クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきています。このクロマツには、徳川家定お手植との伝承があり、御神木として古くから氏子の人々によって、手厚い保護を受け都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。









◆和泉貴船神社




 当社は和泉熊野神社の境外末社です。「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社の姿を「除地、一段、村の北の方にあり、小祠を東向に立つ」と記しています
 創建は社伝では文永年間(1264?75)ともいわれますが、詳細は明らかではありません。
 祭神は高?神(たかおかみのかみ)です。この神は山・谷あるいは川にすむ雨水をつかさどる竜神で、雨乞・止雨に霊力があるといわれています。当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた、山城国(現京都府)の貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられています。
 境内の池は”御手洗の小池”と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇することがなく、村民の雨乞を行う場所であり、その豊富な湧水から”和泉”の地名は、この池に由来するともいわれています。また水質も大変良かったようで、”豊多摩神社誌”は「里人は往昔此井より清酒を湧出せしなど云伝ふ」との伝説を伝えています。この伝説は今日も語りつがれています。しかし、この湧水も神田川の改修工事や周辺の宅地化にともない、昭和四十年頃以後は水が涸れてしまいました。
 当社は大正時代においても「木造茅葺、間口四尺、奥行三尺」という小祠にすぎませんでしたが、古くから和泉地域の人々の厚い信仰に支えられて今日に至っています。
 なお、現在の神明造りの本殿は昭和三十六年の造営で、落成を記念した石碑も建てられています。
 祭礼は五月五日です。





水はなかった。。。



大宮八幡宮

こちらは何度かお参りしている。
2019/04/04 善福寺川散歩 02 大宮八幡宮/馬頭観音/鞍掛の松/大宮八幡宮参詣道/庚申塔/済美山運動広場/杉並区立郷土博物館 - ovanの社会科見学






◆松ノ木遺跡




古墳時代の住居と生活

この復元住居は、方南峰遺跡で発掘された古墳時代後期(6世紀頃)の住居址を推定復元したもので、武蔵野台地における典型的な庶民の住居の形をしています。1辺が約5m、床まで約50㎝方形に掘られ、屋根は住居内にある4本の柱で支えられています。北側には粘土で「カマド」が作られ、その東側には貯蔵穴(食物貯蔵庫)があり、古墳時代の特徴を示しています。
ウインドー前のボタンを押すと、開設が流れます。




ガラス張りになっている個所があって覗いてみたが、何が何だかよくわからない。




もう一つ発掘した跡?があった。



◆高射砲陣地跡地

google mapの位置。




公園のグラウンドの中のようだが、説明板など何も見当たらなかった。
wikiには、
『現在の印刷局久我山運動場・野球A面のライト線あたり、東京都杉並区久我山2-18-18』
とあった。

さらに
『『15糎(cm)』と表記されているが実際の口径は149.1mmであった。砲弾の長さは薬莢を含め約180センチメートル近くはあったという。砲弾には機関砲弾が2,000発も装填され、高度20,000メートルで炸裂すると、200メートル四方の敵機を撃墜させる威力があった。』
かなり威力の高いものであったとのこと。



これより最寄りのバス停まで歩き高円寺までバス移動。
やはりこの炎天下での散歩はきついものがある。

2019/08/01 永福町散歩 02 永福寺/明大前3号踏切/大勝軒/薬師如来石仏/龍光寺

永福町駅周辺から北上する。
このあたりからもう暑さで具合が悪くなる(w




永福寺



 万歳山永福寺曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶(かいけい)の手になるものと伝えられています。
 寺伝によれば、開創は大永二年(1522)で、開山は秀天慶実(しょうてんけいじつ)と伝え、村名もこの寺名によっています。
 永福寺の名は永禄二年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える頃に近いものと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が、当寺の住職をたよってこの地に帰農し、永福寺の檀家となり、村の開発につとめたといわれます。
 中興開基は幕府御馬預役加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。
 当寺は文禄二年(1593)・元文三年(1738)・昭和二十年と三度災害をうけましたが、天正十六年(1588)の「検地書出」をはじめ二十数点の文書が無事保存されており、永福寺村を知る貴重な資料となっています。
 また、その他の文化財も多くみられ、境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳五年(1715)銘の地蔵菩薩石像等があります。寺の西門脇には正保三年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔、元禄四年(1691)銘の地蔵石像が安置されています。


鐘楼


山門


入口


地蔵

上の写真入口左側に写っている。
中はほとんど見えない・・・。




◆明大前3号踏切










すぐ脇が永福町駅







大勝軒

すごい行列・・・・。
ネットで調べたら60年以上続く老舗なんだとか。




薬師如来石仏

google mapのマークの位置はここなんだけど・・・・。



このあたりをウロウロしてみる。




狛犬っぽいのがあったが、これでいいのかな?
ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。



◆龍光寺




 当寺は、泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期(12世紀前半)に造立されたものです。
開創は、明治10年の書上げによると承安二年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応二年1493年寂)と伝えられています。
 山号の泉涌は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉3-22)の泉に、院号の医王は、本尊の薬師如来に因むものといわれています。また寺号の龍光は当時のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。
 江戸時代、当寺の本尊は難病にご利益のある薬師如来として信仰あるく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保二年(1742)銘の梵鐘にも「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は、昭和二十九年に造られたもので、区内では最も大きいものです。
 当寺に伝わる文化財としては、室町期に作られたといわれる興教大師像、文明二年(1470)銘・明応五年(1496)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。
また、当寺は明治初年に廃寺となった宝仙寺末の慈冠山日照寺(杉並区永福1-34)を合併しています。



観音堂



鐘楼



四国八十八か所和泉霊場



巨大な石灯籠

こんなに大きいのは滅多にお目にかかれない。



山門






続く。