2020/01/14 弦巻散歩2 02 世田谷警察署/上馬東公園/上馬子育地像尊/上馬歩道橋/駒沢大学駅前商店街/馬頭観世音菩薩

駒澤大学駅付近から桜新町駅方向に進む。


◆世田谷警察署



◆上馬(かみうま)東公園




◆上馬子育地像尊



 鎌倉道と大山道が合わさる処、舟形の光背・右手に錫杖左手に宝珠の時細地蔵尊像と道祖神があります。
 江戸の頃に疫病が、また大正十一年には疫痢が流行し、多くの人や子供が病に苦し見みました。
 村の人は心配のあまりお地蔵さまに祈願をされてきました。
 幸なことに何れのときも皆助けられました。
 それからはお地蔵さまを子育地蔵尊と名を改めて犯りました。
 古来よりお地蔵さまは大地の神と言われています。
 一切の万物を生み育てる受胎であると感謝の祈りを捧げ、地神または地母として崇められてきました。
 お釈迦さまもこの祈りに深く心を打たれ、地蔵菩薩と名付けられて人々の救済に尽くされました。
 私たちの近くで、慈悲の手を差しのベて下さるお地蔵さまに、お釈迦さまは亡きあとを託されてゆかれました。





◆上馬歩道橋





駒沢大学前駅商店街

おそらくこのまままっすぐ行けば東急田園都市線駒澤大学前駅。






馬頭観世音菩薩





続く。

2020/01/14 弦巻散歩2 01 三軒茶屋駅/商栄会協同組合/PAX CAFE/三軒茶屋第一病院/伊勢丸稲荷神社/三軒茶屋病院

珍しくお休み。
午前中は布団を干したり洗濯したりして午後からお散歩
三軒茶屋から桜新町付近まで西へ進んだあと、北東方向へ進み、最後は世田谷線若林駅から帰る。



この日記のエリアは三軒茶屋から、駒澤大学駅方面に向かう。



三軒茶屋



◆商栄会協同組合





◆PAX CAFE

変わった建物だったので撮ってみた。




三軒茶屋第一病院



◆伊勢丸稲荷神社





石川右三郎の像

どのような人なのかが調べてもわからなかった・・・。






三軒茶屋病院



続く。

2020/01/11 弦巻散歩 04 伊富稲荷神社/桜新町二丁目ウレシパモシリ市民緑地/呑川水源/世田谷新町公園(溜池跡)/桜新町駅

ここでもやっぱり南下。
ゴールはすぐそこ。


◆伊富稲荷神社





桜新町二丁目ウレシパモシリ市民緑地

「ウレシパモシリ」?
ネットで調べてみた。
ウレシパは育み合う、モシリは大地なんだそうだ。
「この自然界そのもの」という訳もあった。


呑川水源

柵の向こうがそうなんだろう。
説明板などは何もなかった。



◆世田谷新町公園(溜池跡)

google mapには溜池跡とあるが、説明板などはなかった。







桜新町駅

ゴールの東急田園都市線桜新町駅



駅前のサザエさん




まだまだ体力は余っていたが、精神的に落ち込んでいて、こちらで断念。
三軒茶屋まで歩く予定だったんだけどね・・・・。
あと、今回歩いたコースにトイレがなくて駅まで我慢(w
散歩前にアルコールは飲まない方がいいね(自爆

2020/01/11 弦巻散歩 03 大山道児童遊園(蛇崩川洗い場跡)/八幡神社/弦巻商店街/地蔵と馬頭観音/蛇崩川水源(南支流)

こちらでもどんどん南下する。
道路工事している所がたくさんあった。



◆大山道児童遊園(蛇崩川洗い場跡)


大山道旅人の像




 江戸時代 中期、関東 一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。
 これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山 、世田谷 、二子 、溝ノ口 、長津田伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道 とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋 、世田谷通り 、ボロ市通り 、そして弦巻を通って、用賀 、二子玉川 に行っていました。
 しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道 に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってききました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。



世田谷

ボロ市木もれ陽散歩は、世田谷線上町駅から静かな住宅街を抜けて公園までの約4.9kmのmみちのりです。江戸期の楽市に端を発する有名なボロ市が開かれるボロ市通りを歩き、世田谷代官屋敷、馬と緑の馬事公苑そして広大な砧公園内をめぐります。

室町時代、世田谷は吉良氏の支配地どなりました。吉良民は世田谷城を築き、世田谷の中心として栄えました。さらに江戸と小田原をつなぐ矢倉沢往環(その後の大山道)の要衝の地であったため、定期的な市も開かれ、賑わいをみせ
ていました。有名なボロ市はこの「楽市」が起源です江戸時代になると用水開発が行われ、田畑も積極的に開発され、江戸に野菜を供給する近郊農村としての役割を担いました。世田谷の地名の由来については定かではありませんが多摩部勢田鄉の谷地の部分という意味で付けられ
たとする説があります。


八幡神社



◆弦巻商店街





◆地蔵と馬頭観音




◆蛇崩川水源(南支流)



google mapだとこの写真のところ辺り。
ちょうど工事で掘っているところだろうか。
現地には説明板などはなかった。




続く。

2020/01/11 弦巻散歩 02 庚申塔/お地蔵様/満桜稲荷神社/世田谷地区会館/供養塚跡/庚申堂

地図を見ると坂になっているらしい。
多摩川に向かっているので下り坂になっていると思いきや、上り坂になっていた。
坂の上に出る道が少なく、かなり大回りする。その後また南下する。



庚申塔




左に見えるのが次のお地蔵様。



◆お地蔵様






◆満桜稲荷神社



「?」








◆世田谷地区会館



◆供養塚跡



◆庚申堂





続く。

2020/01/11 弦巻散歩 01 経堂駅/経堂すずらん通り商店街/地蔵尊/ハートフル農大通り/小川橋/経堂大橋公園

24時間勤務アケで、小田急線経堂駅から東急田園都市線桜新町駅まで歩く。
この前のルートより西側を南下。


この前気になった小倉庵でたい焼きを買おうと思っていたら、まさかの時間前(w
そこから桜新町の方に向かって南下する。



◆経堂駅




スタートの小田急線経堂駅。




◆経堂すずらん通り商店街




地蔵尊





◆ハートフル農大通り




気になるお店・・・・。





◆小川橋








◆経堂大橋公園




続く。

2019/01/09 上野散歩 02 国立博物館「高御座と御帳台」特別公開

上野散歩のいちばんの目当てはコチラだった。
国立博物館自体が初訪問だった!
今度からは企画展などチェックしようと思う。




見学の列に並んだら50分待ち・・・・。
新聞読みながら待つ。



高御座/御帳台

手前が高御座、奥が御帳台。



高御座



御帳台



反対側




高御座・御帳台
高御座は、古代より、天皇の即位の儀式に御座として用いられてきた調度品です、御帳台は、近代以移、皇后の御座として、即位の儀式に用いられるようになったものです。現在の高御座と御帳台は大正天皇即位に際して制作されたもので、京都御所の紫宸殿(ししんでん)に置かれていますが、今回は平成度と同様に皇居の宮殿において用いられました。
 高御座は、朱塗りの高欄をめぐらせた黒漆塗りの方形の継壇(つぎだん)を基礎とし、八角形の床板を2弾に重ね、8本の円柱が八角形の蓋(きぬがさ)(屋根)を支えるつくりになっています。蓋の頂上の路盤(ろばん)には大鳳1羽を、蓋の各角の蕨手(わらびて)には小鳳8羽を、すなわち大小合わせて9羽の鳳凰の像を載せています。そして全体にわたって、白玉(はくぎょく)を嵌入(かんにゅう)した華形、銀鍍金(ぎんめっき)の鏡光(きょうこう)、瓔珞(ようらく)、その他の飾り金具で装飾されています。内部には御倚子(ごいし)があり、その左右に剣璽(けんじ)と国璽(こくじ)及び御璽(ぎょじ)を置く案(あん)(小卓)があります。御帳台は、高御座の隣に置かれます。御帳台とほぼ同じですが、蓋には鸞(らん)という瑞鳥(ずいちょう)の像を飾り、また高御座委に比べると少し小ぶりになっています。

<パンフレットより>




即位礼正伝の儀の際の写真展示














即位礼正伝の儀における服装

 即位礼正股の儀では、宮殿の正殿松の間において、天皇陛下は御束帯(黄櫨染御袍(こうらぞめのごほう))に御立纓(ごりゅうえい)の御冠(おんかんむり)をお召しになって御笏(えいしゃく)をお持ちになり、皇后陛下は御五衣(おんいつつきぬ)・御唐衣(おんからきぬ)・御裳(おんえ)をお召しになって御槍扇(おんひおうぎ)をお持ちになりました。皇嗣殿下は束帯(黄丹袍(おうにのほう))に帯剣され垂纓(すいえい)の冠をお召しになり、常陸宮殿下は燕尾服をお召しになり大勲位菊花大綬章を佩用(はいよう)しました。女性皇族は五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)・裳(も)をお召しになりました。
 晴儀の場合、宮殿中庭には、帯剣し弓を持った威儀(いぎ)の者が左右各10名、太刀・弓・胡鎌(やなぐい)・桙(ほこ)・楯を捧持する威儀物捧持者がそれぞれ4名ずつ左右各20名、鉦(しょう)と鼓(こ)を受け持つ司鉦司鼓(ししょうしこ)が左右各1名と鉦鼓(しょうこ)の係員が左右各6名、帯剣し弓を持った衛門が左右各2名、合計78名の者が並ぶところ、今回は雨儀のため、宮殿内の回廊の西側と豊明殿南廊下の西側に、威儀の者が各2名、威儀物捧持者がそれぞれ1名ずつ各5名、豊明殿南廊下の東側に、司鉦司鼓が1名と鉦鼓の係員が6名、波の間及び北の間に、衛門が各2名、合計25名の者が並びました。これらの者は、いずれも束帯姿で、威儀の者・鉦鼓の係員・衛門は武官の装束を、威儀物捧持者・司鉦司鼓は文官の装束を着けました。威儀の者は、黒と緋(ひ)の闕腋袍(けってきのほう)にそれぞれ巻纓蒄(けんえいのかんむり)と緌(おいかけ)を着けました。威儀物捧持者は、太刀が黒の縫腋袍(ほうえきのほう)、弓と籙胡籙が緋の縫腋袍、桙と楯の捧持者は縹(はなだ)(薄い藍色)の縫腋袍に、それぞれ垂纓冠(すいえいのかんむり)を着けました。司鉦司鼓は、緋の縫腋袍に垂纓冠を、鉦鼓の係員は、縹の開闕腋袍に細纓冠(さいえいのかんむり)と綾を着け、衛門は、縹の闕腋袍に巻纓冠と緌を着けました。











装飾が細かくてすごいね・・・。
人が居なかったら細部をゆっくり見てみたかった。
普段は京都御所紫宸殿に常設されているとのこと。
中には「後で壊しちゃうなんてもったいないねぇ」とかとんでもないことを言っている人が居た。
大嘗宮と勘違いしているんだろうね。
国立博物館では1月19日まで公開しているとのこと。