2020/01/13 西台散歩 02 善長寺/三社石塔/ハーブ&おいしい野菜塾/聖徳太子身代子安地蔵尊/西台天祖神社/神明坂/大山不動明王

だいぶ東西にぶれながらゆっくり南へ進む。
起伏が激しくなってきた。



◆善長寺



 宗派は曹洞宗で、御本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、福寿山善長寺と号します。
 寺伝によると、圓福寺第七世で、元禄三年 (1690)に入寂した安山雲泰が、延宝年間(1673〜81)に隠居寺として創建したのが始まりとされ、西台村の松浦長十郎が、 敷地や資材を寄進したと伝えられています。 しかし、当寺にある承応四年(一1655)に入寂した祥庵存佐の位牌には「当寺開山」と あり、創建年代がさらに遡る可能性もあります。
 境内にある大鷲(おおとり)神社は、西台村の杉本幸右衛門の長女トミが重篤な病気にかかった時に、 屋敷内に飛び込んできた一羽の鷲が彼女の身代わりに死亡したため、明治十年(1877)に屋敷内で鷲を祀ったのが始まりで、 その後、当寺内に遷されました。毎年十二月の 二の酉には「お酉さま」(酉の市)が開かれ、 多くの露天商によって、熊手(カッコメ)が 売られています。
 明治七年には、第二十五世仏忠によって寺子屋が開かれ、その後、志村第五小学校の前身である「福寿学校」に発展しました。


西台大鷲神社










◆三社石塔









◆ハーブ&おいしい野菜塾

レストランってことになってるんだね。
HPがあった。
東京 板橋 ハーブ&おいしい野菜塾レストラン



奥に釣り堀もあった。
なんだか楽しそうな空間。
なぜか神社まであった。




お福分け神社設立のご案内
 戦時中、地域地元の方々の手により防災の場として、池・ 防空壕を造られた地に、神田末広町松ノ木目印黒焼き店(元禄三年創業)の工場として、第七代菅俣吉兵衛が疎開して参り、以来、平成十五年に移転するまで黒焼所・製粉所として稼働して参りました。
 その工場跡地に「おいしい野菜塾」として、レストラン・畑・ハー ブ園・ミニ鉄道・イチゴハウス・ボルタリング等が造られ、その土地 に植えられている樹木・野菜・果実・ハーブ。また、それら施設に携わる人々の、命・エネルギー・意志が宿る所のお社を造り、地元西台 の天祖神社、上野の五條天神社の薬祖神を祀せて頂きました。
 こちらの神様は、来園される皆様の喜び・楽しさ・美味しさ・安全 にお力を注いでおります。
 また、神様自身も、お客様より工ネルギーを頂載して、益々豊かな神様として成長し皆様をお守り致します。
 お帰りになる際は、出来れば神様に「楽しかった」とお声掛けていたエネルギーで、より豊かになられた神様より、皆様に福 かります。 またのご来園で、より沢山の工ネルギーを頂載して、福運をお分け 致したいと心よりお待ち申し上げております。








聖徳太子身代子安地蔵尊









◆西台天祖神社



 御祭神は天照皇大神です。創建の年代は不詳ですが、伝承によれば円墳の上に営まれた祠を起源にするといわれています。明治二年(1869)に書かれた社寺取調下案に「西台村十社之内 一村鎮守式外神明神社」と記されているように、西台村の鎮守で江戸時代には神明神社または神明社と呼ばれていました。天祖神社と社号が改められたのは明治六年のことです。
 境内には、区内で広く信仰されていた木曽御嶽山に関連する石祠や木曽御嶽塚、寛政八年(1796)に造立された神明型としては区内最古の鳥居、本殿左奥には石祠に中国の故事(鯉の滝のぼり・韓信の股くぐり・カメ割りの唐絵)が彫られた「天王さま」と呼ばれる八雲神社など、 多くの石造物があります。また、明治七年に京徳観音堂付近から発掘された石棒(性器)は、 農耕・子孫繁栄、咳止めの神として信仰されて います。
 そのほか、西台の井戸掘り職人が奉納した「井戸掘り絵馬」をはじめとして、平成二十八年度 に区登録有形民俗文化財となった絵馬・扁額が 多数保管されています。


御嶽神社


百度



 真剣に神に相対する時は、他を顧みるいとまはありませ ん。ひそかに参るためには、夜中を選ぶのを通例とします。 絶対に人目につかずに参りおおせたら、神意に適い、事は成就するものとの信仰があります。それほど切実な心願を籠めるために、昔から『百度参り』(「百度詣」、「お百度」ともいう)が続けられて来ました。その仕方には二通りあります。普通は一夜に百度詣り、境内のある場所から 拝殿前まで素足で百度往復して参る方法。もう一つは、百日をかけて百回参る方法で、いかなる都合があっても万障繰り合わせて参らなくてはなりません。これは一日も欠 せず、代参の依頼も許されないとされています。


楽殿


稲荷神社



富士浅間神社


春日神社/伊勢神宮/杵築神社


力石と不明な社


八雲神社



おしわぶきさま(しゃぶさきさま)



「おしわぶきさま」は、男根の形をした石神様で、築造は古く天神の 天降る頃(天孫降臨)と云われております。以前は、近くの京徳(神社南方の地域)に祀られておりましたが、明治初期に当社に移されてまいりました。
 昔は、田畑の辻や村の境、橋のたもと等に「道祖神」として祀られて、 道路の往来の安全を守り、疫病や悪神を追い祓い、五穀豊穣を願う農村の信仰として親しまれてまいりました。
 また、御神体が石で作られていることから、「石神」が「せき神」、 「しゃく神」と呼ばれ、それがいつしか「石(せき)」が「咳」に、「しゃく神」が「杓子」となり「しゃもじ」を奉納する風習がうまれたとされています。


鳥居








◆神明坂



標識などは見つからず、どこから坂なのかわからなかった。
google mapには載っていた。


こちらに詳しく載っている。
神明坂(板橋区西台)
profile/神明坂








◆大山不動明王









続く。

2020/01/13 西台散歩 01 西台駅/蓮根馬頭観音堂/UR 新蓮根/蓮根朝市/蓮根氷川神社/首都高速5号池袋線/功泉湯

24時間勤務アケで、都営三田線西台駅から東京メトロ平和台駅まで散歩。



西台駅南側エリアを散策。
首都高速5号池袋線の高架をくぐってさらに南へ。



西台駅

スタートの都営三田線西台駅




駅前にあった地図







◆蓮根馬頭観音



蓮根馬頭観音緣起
 当観音堂は、通称「田の観音」といい、本尊は牛馬を守護するという馬頭観世音菩薩である。
 開基は元禄十一年(1698)二月、貞閑大法師により現在地にまつられた。通称は当時この一帯が田園であった事による。農作業の往復時、あるいは荷駄の運搬途次、牛馬を連れて参拝する往時の人々の姿が偲ばれる。
 当時は雨露をしのぐお堂等はなかったが、利生あらたかなる観世音菩薩として信真の人々が、毎月十八日の縁日には村々より牛馬の手綱を握 る人々が列をなし諸方より集い、観音堂はさらに隆祥する。


元禄十一年二月      貞閑大法師 開基
安永三年六月       蓮華寺   第十六世翔良和上  小堂を成す
文政五年六月       全     第十八世秀明和上  改築、間口二間半に拡張す
明治十五年二月      全     第三十二世永真和  上大修繕を加える
明治三十八年十二月十七日 全     第三十六世秀盛和上 火難により焼亡す
明治三十九年二月     全     第二十六世秀盛和上 中村傳蔵及び江口直次郎両氏を発起人として堂宇の再建す
大正十二年九月一日    全     第二十七世宥成和上 関東大震災により倒壊する が復興する
 
 草創より三百年、平成九年二月現在、裕幸代において老朽甚だしい堂宇を再改築し子々孫々の代に伝えんと発願し、同年六月佳日に落慶法要 を厳修す。それ以後、香華の絶ゆることなく近在の人々の信仰のよりど ころとして今日に到る。








◆UR 新蓮根









◆蓮根朝市

この通りでやるのかな?
下のバリケードは通行止めにするためのものだろう。



調べるとなかなか楽しそうな朝市をやっているんだね。
早起きは三文以上の徳!蓮根朝市にいってきた。 – いたばしTIMES
朝市事業|板橋区公式ホームページ







◆蓮根氷川神社



 当社は、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の御祭神を奉祀しています。
 もともとは、蓮沼村前沼にあった丸池の沼畔(現在の志村橋近辺)に鎮座していました。文政十一 年(1828)に完成した地誌、『新編武蔵風土記 稿』には、蓮沼村の記事に「氷川社三、一ハ村ノ 鎮守、一八蓮沼・根葉二村ノ鎮守、共二南蔵院持、 一ハ金剛院持」とあり、蓮沼・根葉両村の鎮守でした。明治三十三年(1900)に当時の上蓮沼 村と根葉村が合併して蓮根地域となると、同地域 の鎮守となりました。大正十三年(1924)の 荒川上流改修工事(新河岸川開鑿(かいさく))にともない、 現在地に遷座しました。
 境内には、末社として御嶽神社、稲荷社が祀られ、また古い石祠が残っています。


稲荷神社



御嶽神社


楽殿


鳥居


神社脇の庚申塔







首都高速5号池袋線

高架をくぐって南側へ。








◆功泉湯

銭湯♪










続く。

2021/01/11 高島平散歩 05 稲荷神社/庚申塔/高島平団地/中央商店街/高島平駅前西口歩道橋/高島平駅

北へ進み、来た時と同じ長後赤塚線に入り、高島平駅へ戻る。



◆稲荷神社







庚申塔







高島平団地










◆中央商店街









高島平駅前西口歩道橋




歩道橋の床

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高島平駅

ゴールの都営三田線高島平駅





とにかく寒かった(w
西台か蓮根あたりまで行きたかったのだが断念した。
勾配はほとんどなく歩きやすかった。
粕谷家住宅は中に入りたかったなあ。
令和4年の3月ごろまでお休みとのことだった。

2021/01/11 高島平散歩 04 安養寺/稲荷社/徳丸北野神社/郷土芸能伝承館/徳丸槙の道/旧粕谷家住宅

細い路地を東へ進んだ後は、徳丸槙の道を北に進む。



◆安養寺








◆稲荷社








◆徳丸北野神社



当社所蔵の「武蔵国豊嶋郡徳丸郷天神宮紀」によれば「當社は天満天神なり 往昔 此の処ろに古木の霊梅あり
一條院正暦年中(990~994年)に里人等大勢の者が疫癘の癒えんことを祈斜し謹拝して去った
将に其の効しを得るなり斯く祈ることにより奇妙な効果が得られたことは すなわち是の誠の美精に徹する所ろ 鬼神の物に感ずる所以にして奇怪と云うに非ず
およそ 梅は聖廟天神の珍愛する所なり これを以て念いを山州葛野郡に通わし 當里に祠を設けて天満宮と号す
人皇第六十六代一條院長徳元年乙羊(995年)正月一一日御幣帛を捧げ 大前に田夫の業を以て俳優となし、神威を安んじ奉る 今の田阿曽美の祭り是れなり」とある 江戸時代には 天神社又は天満宮の社号であったが 明治六年から北野神社と改称された



北野神社と無形民俗文化財「田遊び」
 長徳元(995)年京都北野神社より勧請する。道真公は平安朝時代の学者で右大臣に任ぜられ、のち藤原時平の嫉にあい九州の太宰府に流されてその地にて没す。没後は天神とあがめられ、学問、能筆の守り神として庶民の間に崇敬をあつめている。
 無形文化財「田遊び」は、毎年二月十一日夜間、五穀豊穣を祈願して行なわれる。この夜地の神を招き、農家一年間の行事を所作と唄で表わす古い形を残した祭りである。
 また、毎年五月には獅子舞が行なわれ、悪疫の退散と子供の無事生長が祈願される。


田遊びの碑


杵築神社/稲荷神社/三峯神社/天祖神社/石上神社


稲荷神社/須賀神社


祖霊社


天王様


鳥居


出羽三山神社



境内社


鳥居







郷土芸能伝承館

トイレをお借りした。
しかし、これなんのための施設なんだろう?







◆徳丸槙の道

この道路に銅像が並んでいた。










◆旧粕谷家住宅

工事中で中へは入れなかった。



 旧粕谷家住宅は、江戸中期に徳丸脇村(わきむら)(現在の板橋区徳丸)の名主であった粕谷浅右衛門(あさえもん)が隠居に際して建てた住まいです。このため 「東の隠居」と呼ばれていました。
 調査の結果、柱の見えない部分(柱柄)に、享保八年(1723)の 墨書が見つかり、建築年代が正確にわかりました。
 当住宅は、茅葺屋根を残しながら、土間に床を張る、間仕切りを設 ける、仏壇や神棚を設けるなどの改造を経て、平成に至るまで住み継がれてきました。
  復元整備工事では、痕跡を細かく調べ、建築当初の姿に戻しました。 建築の特徴は、以下の四点にまとめられます。
①土間境に建つ三本の大黒柱
②押板(おしいた)
③しし窓
④三間四方の板間
これらは、関東地方の古民家に認められる特徴ですが、その四点すべ てを構えている例はたいへんめずらしく、古い形式を伝えています。
 当住宅は、建築年代が明らかな民家としては都内最古級であり、江戸近郊の上層農家の発達過程や地域的特色を示すものとして、高い歴史的・学術的価値を有しており、平成三十年三月十五日に東京都指定 有形文化財になりました。



「旧粕谷家(東の隠居)住宅
 旧粕谷家(東の隠居)住宅は、板橋区有形文化財に指定されており、茅葺屋根の外観と庭は、かつての武蔵野の面影を残す貴重な景観資源であることから、板橋区景観計画における景観重要建造物に指定しています。 (景観法第十九条第一項)


一度来たことがある。
この時も中へ入れなかった。
2016/02/07 part5 旧粕谷家(東の隠居)住宅 付宅地 - ovanの社会科見学







続く。

2021/01/11 高島平散歩塔 03 番場口の庚申塔/延命地蔵尊/稲荷神社/文字庚申塔(徳丸5)/徳丸三ツ和公園/窪口の庚申塔/馬頭観音

ここでも細い路地を東へ進む。



◆番場口の庚申塔



 古代から行なわれていた庚申信仰は、人の体内にいる三尸という三匹の虫が、いつも人の罪や過ちを観察していて、 六十日ごとに回ってくる庚申の日に人が眠りにつくと、体内から抜け出して天帝に罪や過ちを報告し、天帝から寿命 を削られるという考えにもとづいて発展したものです。そこで人々は庚申の日の夜に三尸が抜け出さないように集まり、徹夜で祈禱や飲食を行いました。この組織が庚申講で、 江戸時代に広まりました。また、その講の継続を記念して建てられた石造物が庚申塔です。
 番場口の庚申塔は、文久二年(1862)に徳丸村講中 により建てられたもので、台石の向かって左面には 「東 にしだい道/西 ふきあげ道」と刻まれており、道標もかねていました。
 この庚申塔はその刻銘どおり、もともとは西台から成増方面の台地下の崖線に沿って通っていた峡田道と呼ばれる 道に面して建っていました。現在の赤塚公園交差点のあた りです。その後、高島平地区の造成や四葉地区の土地区画整理事業などにより二回移動した後、平成十六年六月にここに移りました。昔は、紅梅公園から赤塚公園交差点あたりまでが番場という地名でしたので、「番場口の庚申塔」と呼ばれています。移動はしましたが、今も番場地区内に 地域の歴史を伝えています。







延命地蔵







◆稲荷神社







◆文字庚申塔(徳丸5)







◆徳丸三ツ和公園







◆窪口の庚申塔



 人の体内には三尸という三匹の虫がいて人の罪や過ちを観察しており、庚申の日(六十日に一回まわってきます)に人が と三尸が体内から抜け出して天帝に罪過を報告し、 天帝によって寿命が削られると信じられていました。そこで、庚申の日の夜に人々が集まり、三尸が抜け出さないように祈祷や 飲食をともにして徹夜をするという風習がありました。この集まりが庚申待・庚申講で、その集団によって建てられたのが庚申塔です。
 この庚申塔は、寛延三年(1750)に徳丸郷講中十二人 により、この周辺の小字「窪」に造立されたもので、窪口の 庚申塔と呼ばれています。最初に建てられた場所ははっきりしませんが、長い間安楽寺参道入口脇に立っており、平成十七年九月にこの場所に移動しました。なお、この塔を造立した講は現在も「窪口庚申講」として存続し、活動しています。
 このように、この庚申塔は当初の位置からは動いていますが、 今なお窪地区に立ち、この地域の民間信仰及び歴史を伝える貴重な資料です。







馬頭観音









続く。

2021/01/11 高島平散歩 02 高島平区民館/高島平警察署/赤塚公園/赤塚公園歩道橋/庚申塔(四葉2)/紅梅公園/御大典記念道標碑

長後赤塚線という道路を南下。
庚申塔四葉2)からは細い路地に入り東へ進む。



◆高島平区民館





◆高島平警察署





◆赤塚公園









◆赤塚公園歩道橋

すごい巨大な歩道橋だ。
上は首都高速5号池袋線
下は長後赤塚線。







庚申塔四葉2)






◆紅梅公園





◆御大典(ごたいてん)記念道標碑

背後に紅梅公園が写っている。



 この碑は、天皇即位式を記念して、徳丸・四葉の人々により建てられたものです。 碑には年号が刻まれていませんが、大正四 年(1915)ni
に建てられたものと思われ ます。
 また、この碑は道標もかねており、正面 に「右 戸田赤羽道」、「前 成増停車場 /白子、川越道」、「左白子観音道」と 記されています。
 このように、この石碑からは当時の世相 や情景をしのぶことができます。 なお、この碑は、昭和五十年代後半には 今の四葉二丁目二・三番あたりに横倒しとなっていましたが、その後土地区画整理事業に伴い一時行方不明となり、四葉遺跡の発掘調査の際再発見されました。






続く。

2021/01/11 高島平散歩 01 高島平駅/高島平商店会/徳丸ヶ原公園/ こども動物園高島平分園/三田線高架/お地蔵様/高島平図書館

24時間勤務アケで、高島平駅周辺を散策。



高島平駅周辺を散策。



高島平駅

スタートの都営三田線高島平駅









◆高島平商店会

商店街♪








◆徳丸ヶ原公園


竣工記念碑


徳丸ヶ原碑



 徳丸ケ原は板橋区中西部、現在の高島平、新河岸、三園などかなり広い地域の荒川南岸低地一帯の総称です。徳川幕府の鷹場でしたが、八代将軍吉宗の時代から鉄砲の試射場となり、寛政四年(179)に幕府の正式な大筒稽古場となります。徳丸ケ原は、天保十二年(1841)、江戸時代後期の砲術家であった高島秋帆(しゅうはん)によって西洋砲術の実射訓練が行われたことで一躍有名になりました。
 天保十一年(1840)、アヘン戦争など の情報を得た秋帆は西洋砲術の採用などを幕府に建議、砲術の実力を確認するための洋式調練と実射がこの地で行われました。この徳丸ヶ原での調練の成功で、高島流砲術の名声が高まりました。 この碑は秋帆が訓練の際に指揮した弁天塚に建てられていたものを移したものです。



 高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原と呼ばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣(まぐさ)や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として 人砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保十二 (1841)には、五月七〜九日の三日間にわたり、長崎の町年 寄高島秋帆によって初めての西洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟ら に筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形のトンキョ帽という兵装 束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣(じゅうじん)を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられて開墾が行われ、最終的に約四百ヘクタールの徳丸田んぼ・赤塚たんぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和四十年代になると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開 発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。高島平の地名は、当地で砲術訓練を行った高島秋帆にちなんで付けられたものです。



氷が張っていた。
寒い。。。。







◆こども動物園高島平分園









このこども動物園は1979年の国際児童年を記念し板橋区のこどもたちのすこやかな成長を願って建設したものです。







三田線高架



こちらを通って三田線の南側へ。







◆お地蔵様

こちらはgoogle mapに載っていなかった。








◆高島平図書館

成人式だねー!







続く。