2021/04/08 西尾久散歩 11 千代の湯/梅の湯/小台銀座/広場/山谷の神明社/アップルロード

ここでは千代の湯を目指して細い路地を西へ移動。
その後はまた東へ移動し、小台銀座あたりから南へ進む。



◆千代の湯

銭湯♪








◆梅の湯

銭湯♪







小台銀座

商店街♪










◆広場

名前がどこにも載っていなかった。
西尾久二丁目バス停が中にあった。


アップルエンジェル

「立川義明」とあった。

こちらに紹介ページがあった。
アップルエンジェル/荒川区公式サイト

立川義明さんについてはこちらにインタビューが載っていた。
No.50  | ACC 公益財団法人 荒川区芸術文化振興財団



google mapには載っていない。
場所は赤丸のところあ。







◆山谷の神明社



山谷の神明社(天祖神社)
 上尾久字山谷(現西尾久一丁目の一部)の天祖神社は通称山谷の神明様。 として親しまれている。
 伝承によると明暦の頃(1655~7)、台風の後に金物のようなものが当地に流れつき、租末に扱った人が怪我をしたので祀るようになったという。騒ぐと崇りがあるといわれ、祭りの際にも神楽、雅子、神輿の類いは出ない。また、勝負の神様、お産の神様としても知られている。
 この神明様の氏子の集まりは神明講と呼ばれ、現在でも続いている。



右は庚申塔だね。
左はわからないなあ。
どちらもかなり風化している。








◆アップルロード

商店街♪










続く。

2021/04/08 西尾久散歩 10 尾久八幡神社/女子医大通り/碩運寺/社/条里の遺跡の碑/史跡

都電荒川線の線路を渡って細い路地を南へ移動。



◆尾久八幡神社



八幡神社と八幡堀
 八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳二年(1385)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。
 八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社を取り囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたという。



八幡神社と上尾久村村絵図
 上尾久村村絵図(荒川 区指定文化財)は、神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子が窺える。図中には、農業用水の流路、七名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端や中里との間で取り決められた用水に関する記述が三ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。このほか 享保十四年(1729)銘の手水鉢(荒川区登録文化財)や南北朝期の至徳二年(1385)銘をはじめとする棟礼(荒川区指定文化財)等を所蔵。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から鎌倉時代末期には鎮守として勧請されていたと考えられる。


厳島神社



鳥居



神社前にあった案内板1

八幡堀プロムナード
 江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和六十年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。
 荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。
 東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした歩道の整備を行いました。
 この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。


神社前にあった案内板2

この地図は江戸時代の「尾久村絵図」とい八幡神社に保存されている「荒川区有形支化財」を写したものです。
 
 荒川区立尾久官前小学校の四年生が社会科の学習をする中でこの地図の水路に目をつけました。 そして、尾久村は江戸時代に米づくりが盛んだったことや農業
用水を確保するために苦心したことなど先人の偉業があったことを知りました。
 消えてしまった八幡堀とその水路を、 再び町によみがえらせようと願った子どもたちの気持ちは、 保護者や地域の人々の心を動かし多くの人々の協力を得て、八幡堀プロムナードとしてその姿の一都を実現することがてきました。このことは東京都はもとより、日本各地に知れわたり地域の中で育つ子どともの理想の姿として、大きな評価を得ました。







女子医大通り

商店街♪
近くに東京女子医科大学がある。







◆碩運寺

碩運寺(せきうんじ)


寺の湯跡(碩運寺)
 大正二年、飛鳥山下と三の輪の間を結ぶ王子電車(現在の都電)が開通し、翌三年碩運寺に「寺の湯(後の不老閣)」が開業した。
 当時の住職が井戸を掘ったところ、ラジウムを含む鉱泉であることが判明し、寺内に温泉を開業したのである。この後、周辺に保生館・清遊館・大河亭・小泉園等の温泉旅館が次々にでき、商店街も形成された。
 大正初期の王子電車の開通と「寺の湯」の開業は、尾久がムラからマチへと変貌をとげるにあたって大きな役割を果たしたのである。



■八幡堀
 江戸時代の荒川区は、日光道中沿いの街並みや寺社・武家屋敷などを除けば大部分が田畑であり、この農地に水を供給していたのが石神井川用水でした。この用水は、王子用水とも呼ばれ、王子権現の下に石堰を築き、石神井川の水をせき止め、北区・荒川区域の農業用水としたもので、各村内には、この用水の水を引いた用水路がめぐっていました。その中で、八幡神社を囲むようにして隅田川に注いでいた流路が「八幡堀」と呼ばれました。

■すいろみち・さかみち景観整備事業
 かつて隅田川と共に私たちの生活に密着していた水路は、下町荒川の庶民文化や風土を育んできました。しかし、都市化の進展と共に水路は姿を消し、今ではまったく存在しない街となってしまいました。
 本事業は、この八幡堀の流路とほぼ一致した道路を対象に整備を行い、区民のふるさと意識を高め、魅力ある街づくりを進め
るものです。







◆社



google mapに載っていなかった。
場所は赤丸のところ。
何が祀られているのかもわからなかった。







◆条里の遺跡の碑



 「条里南道」と記されたこの碑は、明治二十年ころ、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられた。
 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、碁盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、七世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民にロ分田として分け与えられた。かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。






◆史跡





こちらもgoogle mapには載っていなかった。
場所は赤丸の所。
どういった類のものなのかもわからなくて・・・(汗








続く。

2021/04/08 西尾久散歩 09 寶蔵院/馬場子育稲荷神社/宮前公園/華蔵院/尾久八幡公園/宮ノ前駅

小台橋でまた隅田川を渡って荒川区に戻ってくる。
そして隅田川に沿って東へ移動。
華蔵院からは南へ向きを変え都電荒川線宮ノ前駅へ。



◆寶蔵院

寶蔵院=宝蔵院



阿弥陀三尊板碑(寶蔵院)
 寶蔵院は、金亀山地正寺と号する。開山は寛永十年(1633)に没した奝賢(ちょうけん)、明治の初期まで閻魔堂があったが、火災で失った。所蔵する板碑は、下部が欠けていて、年未詳であるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋(あまがい)・瓔珞(ようろく)が施されている。そのほか、元禄四年の願文が納められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内には、奝賢を供養するために造られた寛永十年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵山墓地の同院管理墓地内には、万治元年(1658)銘ほか、四基の庚申塔が立っている。








◆馬場子育稲荷神社








◆宮前公園







華蔵院

華蔵院(けぞういん)



 華蔵院は、大悲山観音寺と号する真言宗の寺院。開創は未詳だが、中世に造られた板碑2基を所蔵する。うち一基は「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不捨」の光明遍照偈が、阿弥陀の種子(しゅじ)(キリーク ※ 阿弥陀を表す凡事)を月輪のように取り囲む形態のもので、他に例を見ない。そのほか、境内には庚申塔・宝篋印塔など多数の石塔が残されている。
 また、当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場となった。弘化二年(1845)寺子屋江川堂が開かれ、明治十一年には私立田辺小学校が開校。現在の尾久小学校の前身である。

※キリークの梵字はパソコンのフォントに入っていなかった。








◆尾久八幡公園



google mapには「八幡堀跡」というマークもあった。
八幡堀については後程出てくる。







◆宮ノ前駅

都電荒川線








続く。

2021/04/08 西尾久散歩 08 小台公園/小台天祖神社/小台七庚申/宮城公園/宮城氷川神社/小台町民会館

荒川と隅田川に挟まれた地域。
住所は足立区小台となっていた。
今回は行かなかったがもう少し東へ歩くと日暮里舎人ライナー「足立小台駅」がある。



◆小台公園








◆小台天祖神社



天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 天照大御神は、たくさんの神々の中でもっとも尊い神さまとして信仰されています。
 『古事記』や『日本書紀』によろと、 日本の国土や神々を生んだ伊邪那岐命伊邪那美命御子神として誕生しています. また、神々の住む高天原をおさめ、つねに私たちの生活をみまもってくださっています。
 とおい昔に、 皇室の祖先が、高天原か5この国に降って来る時に、天照大御神から生きるために必要な稲穂や、国土が末永く発展すろように、 との祝福の
言葉をいただきました。それ以来、皇室では天照大御神へのおまつりを続けています。はじめは、宮中だけでおまつりしていました第十一代の垂仁天皇の時に伊勢の神宮がつくられ、さらにていねいにまつりが続けられています。
 天照大御神は、またの名を日神(ひのかみ)ともいい、太陽と密接な関係があります。こんなところから皇室の御祖神であるとともに国民の大親神として信仰
されてきたのです。
 全国の家庭の神棚には、氏神さま(地元の神さま)とともに必ず天照大御神がまつられています。
 天照大御神をまつっている神社には、天祖神社神明社などがあります。

伊邪那美命(いざなみのみこと)
 伊邪那美命(いざなみのみこと)は伊那那岐命(いざなぎのみこと)と配偶されろ女神さまです。神話の中では最初に夫婦神として登場する神であって、 夫婦の愛情と性交をつかさどる神とし、教々の国土と人々を生成しました。
 伊邪那は『誘う』意味、岐は『男性』美は『女性』で男女たがいに誘い合って交合の事始めとなった神である事はよく知られいます。
 天神 (あまつかみ)の命により、国土を造り固まらせんと、 天浮橋(あめのうきはし) に立って天沼矛(あめのぬぼこ)をおろして、 かきまわして引き上げた所、矛の先端かち滴る潮から淤能碁呂島(おのころしま)ができました。 この島へ二神は降臨され、広大な八尋殿(やひろどの) を建て夫婦の契りを結んだのです。
 始めに、本州・四国・九州等の八つの島々を生みました。 これが大八島国(おおやしまのくに)つまり日本の国土のはじまりです。続いて風の神・木の神・山の神・野の神が生まれ、国土生成基礎となりました。

天祖神社(てんそじんじゃ)
天照大御神は天津御祖の大神と称され日本国氏の総祖神におはします。
生成化育修理固成の御神徳をお持ちになり国民の上に恵みある御光を投げかけ下さる大神として、信仰されています。
当神社は昭和十四年現在の社殿を造り、昭和三十年二月一日 天祖神社として、村社 江北氷川神社より、分祀独立し小台の鎮守神として住民の尊心を専らにして変わろ事なく今日に至る。

於母陀琉命(おもだるのみこと)
於母陀琉命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)の前に生成した大変昔の神さまてす。
オモダルの字義について本居宣長は「足りないところがなく、体すべて整ったという」意味としています。
別に、大地の表面あるいは国土が整った意味とする説、 さらに対偶神の相互の賛美とする説もあります。
中世に第六天と称して淡母陀琉命をまつろ神社が関東各地にありましたが、これは仏教の三十三天中の第六天を淤母陀琉命にあてたことによろものとされています。


水神様


不動明王


鳥居1


鳥居2








◆小台七庚申



 庚中信仰は、中国の道教に基づくもので、日本には平安時代に貴族社会へ伝わり、江戸時代には広く庶民の間に広まった。庚中信仰は、六十日に一度訪れる庚中の日の夜に人間の体内にいる三尸虫と呼ばれる三匹の虫が睡眠中の人間の体から抜け出て、その人間の罪を天帝に密告し、密告された人間は寿命が縮んでしまうというものである。そこ人々は睡眠をとらずに夜通し酒食を共にすることで、三尸虫が体内から出るのを防ごうとした。これが庚申待と呼ばれる風習である。そして、庚申待を継続した記念に皆で庚中塔を建てるようになった。
 ここに集まっている庚申塔は、大正初期にはじまった川放水路の開削工事で水没する運命にあったもので、その運命を惜しんだ下川亀蔵氏が自家の移転と共に
ここに移転安置したものである。
 承応三年(1654)から元文元年(173)に造立された堂々とした造りで、江戸期に庚申信仰が盛んであったことを物語っている。塔には、武州足立郡淵江領宮城村の刻銘があるが、ここの地名をとって、小台の七庚申(足立区登録有形民俗文化財)と呼ばれ、人々の信仰を集めている。
 多くの民俗資料が消減していくなかで、区民の努力によって保護保存されている代表的なものである。










◆宮城公園


ヤエザクラ








◆宮城氷川神社



 当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(1318~92)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇神亀天平時代(724~48)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(1590)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
 その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公演が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社、木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社、が摂社として祭祀されている。

google mapには「宮城氏館跡」のマークがあった。


稲荷社


水神宮


三峯神社/浅間神社



保存樹林 いちょう



 神社には、よくイチョウが植えられていますが、当神社にも古くからイチョウの木があり、保存樹として社で守っています。秋には黄葉し、季節の変化を感
じます。地域の皆さんに愛されるよう大切に守っていきたいと思います。








◆小台町民会館








続く。

2021/04/08 西尾久散歩 07 延命子育地像尊/西尾久六丁目防災スポット/荒川遊園煉瓦塀/空を見る少女/小台橋/隅田川水上バス乗り場

隅田川沿いを東へ進んで小台橋へ。
小台橋で隅田川を渡って足立区へ突入!




◆延命子育地像尊



日待供養塔二基と延命子育地蔵尊
 ここには寛文九年・宝永二年銘の日待供養塔二基(区登録有形民俗文化財)をはじめ、寛永二十年銘の地蔵菩薩像や庚申塔など、江戸時代に建てられたいくつかの石造物が ある。なかでも日待供養塔は、江戸時代初期のものであり、現在のところ区内ではここ以外確認されていない。
 日待とは、決められた日に講中が集まって日の出を待ちながら一夜を明かす行事である。日待供養塔には上尾久村講中の村人の名が刻まれており、江戸時代、
日待や庚申待などの民間信仰が存在していたことがうかがえる。
 延命子育地蔵尊は、かつて荒川遊園通りの西側にあったが、戦後、道の向かい側の現在地へ移転した。
 延命·子育にご利益が あるといわれ、今も多くの信仰を集めている。毎月二日・十ニ日・ニ十二日の「ニの日」に緑日が あり、毎年七月十二日に祭りをおこなう。









◆西尾久六丁目防災スポット








荒川遊園煉瓦塀






 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正十一年(1922)、荒川遊園地が開園した時に木の塀から煉瓦
塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、舟運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正十一年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎(いくじろう)をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された民営遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和二十四年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。








◆空を見る少女

「掛井五郎」とあった。

こちらに紹介のページがあった。
空を見る少女/荒川区公式サイト

掛井五郎さんについてはこちらのページに詳細が載っている。
Top|一般財団法人掛井五郎財団<GORO KAKEI FOUNDATION>








◆小台橋

下は墨田川。










隅田川水上バス乗り場

右側の観覧車は荒川遊園のもの。









続く。

2021/04/08 西尾久散歩 06 西尾久八丁目公園/延命寺/船方神社/あらかわ遊園/あらかわ遊園子どもプール/あらかわ遊園運動場/あらかわ遊園スポーツハウス

休園中の「あらかわ遊園」に到着。
ここでも隅田川沿いに東へ進む。




◆西尾久八丁目公園


近くにいた猫

怖い顔してるね(汗








延命寺

閉ざされていたので外からお参り。








◆船方神社



 船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼(うっそう)とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。
 昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を投げたという話が江戸六阿弥陀伝承のなかにあります。十二天とは、この十二人の侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。
 密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつられたものといえます。
 なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。


水神宮



三嶽神社


楽殿


鳥居








あらかわ遊園

休園中。
公式HPによると「リニューアルオープンは、令和4年春頃を予定しています。」とのことだった。
コロナが終息していてくれるとよいね。
あらかわ遊園/荒川区公式サイト








あらかわ遊園子どもプール

PVかなんかの撮影をしてた。








あらかわ遊園運動場


夢色の風

「津野充聡」 とあった。

こちらに紹介のページがあった。
夢色の風/荒川区公式サイト

『津野 充聡(つの みつとし、1952年 -)は、兵庫県神戸市出身の彫刻家。女性を中心とした人物像などを発表している。』
津野充聡 - Wikipedia


母と子供たち

こちらに紹介のページがあった。
母と子供たち/荒川区公式サイト








あらかわ遊園スポーツハウス









続く。

2021/04/08 西尾久散歩 05 橘湯/愛宕地蔵尊/都電もなか本舗 明美製菓/荒川9号踏み切り/上中銀座/荒川8号踏み切り/神田湯

ここでもだいたい墨田川に沿って細い路地をジグザグに東へ進む。



◆橘湯

銭湯♪








愛宕地蔵尊



 この地蔵尊は江戸時代にこの地域を領有していた水野家の本郷の屋敷内から当地の小泉家が勧請してきたと伝えられている。この尊は眼病平癒と火伏の祈願佛として広く信仰を集め毎月三日、十三日、二十三日はこの尊のご縁日と定められており お参りする善男善女のお線香の煙は途切れることがありません。








都電もなか本舗 明美製菓










◆荒川9号踏み切り

都電荒川線










上中銀座

商店街♪
中は通らなかった。








◆荒川8号踏み切り

都電荒川線










◆神田湯

銭湯♪









続く。