2018/03/02 大島散歩 01 親子地蔵/平井新田塩浜跡/江東区区役所/長州藩大砲鋳造場跡/南砂緑道公園/旧城東電車車輪

24時間勤務アケで東陽町から亀戸まで散歩。
2/28と出発とゴールはほぼ同じだけど、今回は西側の西大島を通るルートで北上。
最初のいくつかは2月19日にデータが残ってなかったスポット。
これでやっと2月19日の分は撮り直せた。



◆親子地蔵




◆平井新田塩浜跡

江東区区役所の近くにあった。



 明和二年(1765)、平井満右衛門により洲崎弁天から砂村新田にいたる干潟が埋め立てられ、平井新田が成立しました。平井新田は塩浜にする計画で開発され、明和三年(1766)には塩浜が築かれ、製塩が開始されました。
 寛政五年(1793)の「分限江戸大絵図」には塩浜の位置や規模、様子が描かれています。それによると、塩浜は平井新田の西部に位置しており、海から海水を導く「塩浜汐引ホリ」と記された水路や、鹹水(かんすい)(濃い塩水)をつくる「汐溜(しおため)」、海水を煮詰めて塩をつくる「塩カマ(竈)」などの様子がうかがえます。もともと平井新田は塩浜にする予定で開発されたものでしたが、潮の便が悪く永続しなかったため、まもなく廃止されました。
 しかし、塩浜という地名は残り、「平井新田字(あざ)塩浜耕地」の呼称は明治二十四
年(1891)、この地域が深川区西平井町に編入されるまで続きました。




江東区区役所



オブジェがあった。



近くは江東区関連の施設が隣接している。




長州藩大砲鋳造場跡




長州藩大砲鋳造場跡
 パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。

十八封度(ポンド)砲 
嘉永七歳次甲寅季春(かえいしちさいじこういんきしゅん)
於江都葛飾墅(こうとうかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)




「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2−3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
 長州藩では、嘉永六年(1853)十二月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌嘉永七年(安政元年(1854))正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。



実際は3mもあるものとのこと。





◆南砂緑道公園

桜の季節は素晴らしいんだろうなあ。







◆旧城東電車車輪



 この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地にみどりといこいの散歩道として建設されたものです。
 城東電車は大正6年から設置され、この緑道公園の区間昭和2年にしかれましたが、昭和47年11月に廃止されるまでチンチン電車の愛称で広く親しまれていました。





続く。

2018/03/02 大島散歩 02 六地蔵/四砂小北歩道橋/尾高橋/浜東馬頭観音/南砂一丁目第二公園/南砂一丁目北公園

どんどん北上する。
一つの通り沿いにこの日記の場所がある。



六地蔵




お地蔵様の前に工事のダンプが停まっていて正面から撮れなかった。



◆四砂小北歩道橋






◆尾高橋

橋の下は横十間川親水公園






◆浜東馬頭観音

ニンジンがお供えされていた。






◆南砂一丁目第二公園




◆南砂一丁目北公園




続く。

2018/03/02 大島散歩 03 岩井橋/稲荷神社/中浜万次郎宅跡/北砂緑道公園/クローバー橋/釜屋堀子育地蔵堂

ここで、「東京大空襲・戦災資料センター」に入ろうと思ったら、オープン時間は12時。
このとき時計を見たら11時前・・・・。
なので、他の場所に行ってから戻ってくると決める。



◆岩井橋



google map に載っている「陰亡堀」のマークがついている部分はここである。
現地に説明板などがないのでここであってるかどうかわからない。
東海道四谷怪談』の「砂村隠亡堀の場」だそうだ。
もちろん怪談は作り話だが、場所は実在し境川横十間川の交差するこの岩井橋の辺りにあった。
火葬場があったとのことである。
岩井橋の由来は、物語のお岩さんである。
お岩さん、四谷だけでなくこちらにもいらっしゃるんですね・・・・。





◆稲荷神社

こちらは東京大空襲・戦災資料センター脇にあった。



中浜万次郎宅跡



 中浜万次郎宅跡(ジョン万次郎旧居跡)
 「ジョン万次郎」の名で知られる中浜万次郎は、文政10年(1827)、土佐国高知県)の猟師の家に生まれ、明治31年(1898)に没しました。
 万次郎は、14歳の時に漁に出て遭難し、無人島に漂着しましたが、アメリカの捕鯨船に救助され、24歳で帰国するまでの大半をアメリカで過しました。帰国後は土佐藩、ついで幕府に登用され、アメリカの情報を伝えるとともに、通訳や航海士などとして活躍しました。
 明治元年(1868)、万次郎はふたたび土佐藩に登用され、翌年から、この地にあった同藩の下屋敷の中に住みました。この下屋敷は6600坪(21,780平方メートル)ほどあり、庭にわ広大な池があったようです。万次郎は開成学校(東京大学の前身)の教授などを勤めながら11年間をここで過ごしました。




北砂小学校の敷地の中に説明板があった。
google mapには、土佐藩下屋敷(深川屋敷)ともある。



◆北砂緑道公園



クローバー橋

小名木川横十間川が交差する場所にバツ印「×」のような橋が架かっていた。










◆釜屋堀子育地蔵堂



続く。                                      

2018/03/02 大島散歩 04 大島橋/釜屋堀公園/釜屋跡/猿江恩賜公園(南側地区)/猿江材木蔵跡/住吉駅

お花見をしたことがある猿江恩賜公園まで北上し、西側を南下する。



◆大島橋






◆釜屋堀公園



◆釜屋跡

太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し寛永十七年(1640)今の滋賀県から港区にきて●●なくこの付近に住い釜六は明治時代まで釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られなべかまの日用品をはじめぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した。

●のところは撮った写真に葉っぱが写っていて読めなかった。










猿江恩賜公園(南側地区)





猿江材木蔵跡

この付近は江戸時代初期に埋め立て元禄十二年(1699)深川元木場にあった時木場を一時ここに移したことあがあり、そののち享保七年(1722)伊勢屋毛利藤左衛門たちが堀を埋め立て毛利新田をひらいたが享保十九年(1734)幕府はその大部分をとりあげて材木蔵をおき以来幕府の貯木場となし明治以降は皇室所有の貯木場となり大正十三年(1924)その一部を猿江公園とした。



住吉駅



続く。

2018/03/02 大島散歩 05 アサヒペンAPビル/五百羅漢道標/五本松跡/小名木川橋/猿江二丁目公園/地蔵堂

南西に向かって歩いていく。


アサヒペンAPビル

こちら「アサヒペン」さんの東京本社・東京支店とのこと。
大阪が本拠地みたいだね。
この看板、目立つなあ(w




◆五百羅漢道標



 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。
 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保十六年(1731)、寛政九年(1797)、文化二年(1805)の計3回再建されたことがわかります。現在の道標は文化二年(1805)に再建されたものです。
 五百羅漢寺とは、明治二十年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。
 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。


2017/02/19
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170219/1487935705
目黒に移った「五百羅漢寺」は、この時に行った場所だと思われる。






◆五本松跡




江戸時代この付近から東にかえて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり地名ともなったほどであってその一本の松が九鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ、錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった。




小名木川









トリさんがたくさんいた。




猿江二丁目公園



地蔵堂




この中にお地蔵さんがいらっしゃるとは・・・・。
mapに載ってなかったら見つけられなかったと思う。




続く。

2018/03/02 大島散歩 06 猿江神社/小松橋/扇橋閘門/豊川稲荷神社/新扇橋/豊川稲荷大明神

この日記ではひたすら南下。
急にgoogle mapに載ってない神社や史跡が増えてきた。
確認の仕方が悪いのか、あまりチェックされてないのか・・・・。



猿江神社

2016/08/20
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160820/1471749944
扇橋閘門公開の時に一度来ている。



馬頭観音



お稲荷さん



鳥居





◆小松橋






◆扇橋閘門

2016/08/20
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160820/1471749944
この時に一度来ている。
今は工事中なんだね。






豊川稲荷神社



◆新扇橋



扇橋閘門が見える。





豊川稲荷大明神

こんなに近くに「豊川稲荷」があるのはなんでだろう?
橋を渡った向こう側にあるから、祀っていた集落も違ったんだろうね。


続く。

2018/03/02 大島散歩 07 猿江船改番所跡/扇橋一丁目公園/民営機械製粉業発祥の地/ お地蔵様/宇迦八幡宮

午前中に行けなかった「東京大空襲・戦災資料センター」の近くまで戻ってくる。
時間をつぶしたエリアは別の日に来ようと思っていた場所(w




猿江船改番所



 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設置されました。
 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印(ごくいん)が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。



◆扇橋一丁目公園



◆民営機械製粉業発祥の地



 明治12(1879)年, 明治を代表する実業家 雨宮敬次郎は, 水運の便のよい小名木川に着目して, この地に それまでの水車動力に代わる 蒸気機関を動力源とした, 民営では最初の 近代機械製粉所 「泰晴社(たいせいしゃ)」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は, 蒸気機関のほか 石臼製粉器, 篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して 製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は 東京製粉合資会社に受け継がれ, 明治29年日本製粉株式会社に 改組されました。また, 小名木川沿岸には 明治30年台に製粉会社が次々と設立され, 全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。 こうして泰晴社は, 小名木川沿岸に さまざまな近代的工場が進出してくる さきがけともなったのです。
 なお, 明治初期の機械製粉所には, 開拓使により札幌に設立された 磨粉機械所(明治9年), 大蔵省による 浅草蔵前の製粉所(同12年) の二つがありましたが, これらの官営製粉所は ともに日本製粉株式会社が その事業を継承しました。


今まで、「日清製粉」と「日本製粉」と混同していた。
以前行ったことがある舘林の製粉ミュージアムは「日清製粉」のほうだった。
日清製粉に行ったときの日記はコチラ


2014/07/24
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20140724/1410671846


雨宮敬次郎さんについても調べてみた。
山梨出身の明治を代表する実業家とのこと。
「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。
ものすごい人だったんだね。
鉄道関係がものすごい。


今の軽井沢があるのもこの方のおかげらしい。




◆お地蔵様





◆宇迦八幡宮



続く。

2018/03/02 大島散歩 08 東京大空襲・戦災資料センター

こちらの施設は「東京大空襲」の時の惨状をよく伝える資料館だ。

大空襲後の写真が展示。
どれだけの被害が出たのか、どのような避難経路をたどったのか・・・。
日本の戦意を無くすために撒いた米軍のビラの展示など。
貴重な資料が沢山あった。



みんなにお勧めしたい場所だ。
企画展示がかわったら、また来てみようと思う。




東京大空襲・戦災資料センターのHPはコチラ↓
http://www.tokyo-sensai.net/publication/index.html#aruku



半蔵門線、都営新宿線住吉駅」から、徒歩18分
休館日は月曜日と火曜日ですが、行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいネ!

2018/03/02 大島散歩 09 北砂一丁目第二児童遊園/北砂第二公園/北砂緑道公園 2/小名木川橋梁/江東歳時記文学碑/進開橋

小名木川まで北上。
その後は小名木川を進開橋まで歩く。



◆北砂一丁目第二児童遊園



◆北砂第二公園



◆北砂緑道公園 2

細長い公園なので、またぶつかってしまう。



小名木川橋梁

貨物専用線の橋。
もちろん人は渡れない。


◆江東歳時記文学碑



 昭和三十二年(1957)波郷は、読売新聞社の依頼で読売江東版に俳句・エッセイ・写真でつづる「江東歳時記」の連載を開始する。昭和二十一年の転居当時見渡す限りの焼け野原であった砂町も、波郷の入院療養中に目覚ましい復興をとげていた。
 波郷自身もカメラを持ち、江東、隅田、葛飾、江戸川、足立にまたがる江東地域の人々の生活と季節の風物を取材し、俳人の視点から描き出した「江東歳時記」の連載は百十五回を重ねて終了した。



◆進開橋





続く。

2018/03/02 大島散歩 10 石田波郷生誕百年記念碑/旧大島町役場跡地/西大島駅/五百羅漢跡/羅漢禅寺/旧城東区役所跡地

今度は西大島駅まで一気に北上する。
ちょっと史跡の少ないエリアが存在した。



石田波郷生誕百年記念碑



石田波郷(はきょう)は大正二年(1913)松田氏に生れた俳人
戦後の昭和二十一年から十二年間、砂町にある妻あき子の実家で暮し、「江東歳時記」や「借命」に下町の風情や闘病中の句を詠みました。



◆旧大島町役場跡地

役場の跡がここにあったのかどうかまでは確認が取れなかった。



西大島駅



◆五百羅漢跡



 五百羅漢は、元禄八年(1695)に松雲元慶禅師(しょううんげんけいぜんし)により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684〜1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年(1695)、将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺(てんおんさんごひゃくあらかんじ)の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
 当寺の三匝堂(さんそうどう)は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
 羅漢寺は明治二十年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治四十二年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
 ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和三十三年(1958)に建てられたものです。




◆羅漢禅寺






◆旧城東区役所跡地

区役所の跡がここにあったのかどうかまでは確認が取れなかった。
城東区について調べてみると、かつて東京府東京市に存在した区で、23区に再編されるまで東京35区の一つとのことだった。



続く。

2018/03/02 大島散歩 11 LIXIL資料館

こちらはLIXILさんの社史がわかる施設だった。



トステムINAX新日軽・サンウエーブ・TOEX(旧 東洋エクステリア)の五つの会社が統合してできた会社とのこと。
思い返してみると、これら企業さんのCM見なくなったなあ・・・。


今まで建物をつくる時は、サッシならこの会社、トイレならこの会社・・・・
と、たくさんの企業に発注していたものを、一つの会社でできるようにしよという考え方の下に統合。
ブランドはそのまま維持しているとのことだった。


LIXILの社名は「LIFE」×「LIVING」の造語とのこと。



飛び込みで行ってしまったが、丁寧に案内してくださって、
本当にありがたかった。
空きがあったので案内していただけた。
事前に連絡した方が良いかもしれませんね。




LIXIL資料館のHPはコチラ↓
http://www.lixil-history.com/


場所は都営新宿線住吉駅から徒歩7分
休館日は土・日・祝日および会社休日とのこと。
改めてHPを見ると事前予約制ってかいてありますね(w
行かれる方は予約してから行ってくださいネ!

2018/03/02 大島散歩 12 大島愛宕神社/旧朝日山部屋/堅川橋梁/古銭のオブジェ/三代目歌川豊国の生地

亀戸駅に向かってどんどん北上する。
この時点で予定していた時間を超えてしまったので、亀戸天神に梅まつりを見に行くのを断念。
また後日に行こう。



◆大島愛宕神社





◆旧朝日山部屋

たぶんこの更地になっているところだと思われる。
現在の所在地は「千葉県鎌ケ谷市くぬぎ山」とのこと。



◆堅川橋梁

こちら、貨物専用線の橋。
上は首都高。



◆古銭のオブジェ



なぜここにあるのかはわからない。
堅川河川敷公園ちかくにあった。



◆三代目歌川豊国の生地



 三代目歌川豊国は江戸時代後期の浮世絵師、初代豊国の高弟ではじめは国貞と名乗り、のちに豊国を襲名する。本名を隅田庄五郎と称し、天明六年(1786)に本所五ツ目(亀戸五・六丁目付近)で生まれる。五渡亭、一雄斎、香蝶桜など多くの画号があり、とくに五渡亭を一番長く愛用した。
その名の由来は、本所五ツ目に居を構え、竪川にかかる五ツ目の渡し船
株を持っていたことに因んで、天明期を代表する狂歌大田南畝蜀山人)から贈られたという。のち亀戸町に転居し、生涯を亀戸周辺で過ごした。
 豊国は文化・文政期(1804〜1830)を代表する浮世絵師として、美人画・役者絵など多彩なジャンルで活躍した。なかでも柳亭種彦の合本「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」では、挿絵を担当し大人気を得る。この作品をきっかけに源氏物語の世界観を描く「源氏絵」のジャンルを確立し、当時の歌舞伎にも影響を与えた。
 その活躍期間は長く、江戸時代の浮世絵師のなかでも最多の作品数をほこる。元治元年(1864)に79歳で死去。墓所は亀戸光明寺(亀戸二・四二・一)にある。




続く。

2018/03/02 大島散歩 13 堅川河川敷公園/ 旧千葉街道/堅川第一公園/おいてけ堀跡/亀戸駅

置いてけ堀跡がちょっと遠い寄り道になる。
いつものようにちょっと足が痛くなってきたが、ゴールの亀戸駅までがんばって歩く。


◆堅川河川敷公園



縦側の野菊の宿は初芽すぎ
二の芽摘むべく群れ生ひにけり

伊藤左千夫




◆旧千葉街道

千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し、江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより元愛の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。




◆堅川第一公園



◆おいてけ堀跡



 「おいてけ堀」は、墨田区両国付近から江東区亀戸あたりにかけて残る伝説で、本所七不思議のひとつです。釣人が帰る途中、堀から「おいてけ、おいてけ」という声が聞こえ、獲物を置いて帰らないと、いつのまにかその獲物がなくなってしまうというものです。天明七年(1787)刊の黄表紙『亀山人家妖(きさんじんいえのばけもの)』(朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)作・北尾重政画)に取り上げられていることから、18世紀には伝承として成立していたようです。
おいてけ堀の場所には諸説あります。本所や亀戸あたりでは、屋敷地を少し離れると田畑も多く、池や堀の周りには、夜になると人気のない寂しい場所があちらこちらにあり、こうした伝承が生まれたと考えられます。
 明治四二年(1909)作成の一万分の一の地形図「深川」には、亀戸町字横川と清水の間(現在の第三亀戸中学付近)に堀「オイテケ堀」と記されています。同四三年刊の「東京近郊名所図会」其六では、この「オイテケ堀」を実地調査し、四方に樹木はなく釣堀のようになっていること、地元でおいてけ堀と呼ばれている場所が一か所だけではないことなどを記載しています。
 「おいてけ堀」は農村から町場へと変わっていく亀戸の面影を知る説話として伝えられ、近代以降も、錦絵・講談・落語・映画・小説などの題材とされています。



亀戸駅

今回もかなり歩いたが、LIXI資料館などもあって面白かった。
江東区は最北部を残してほぼ歩き倒した感じ。
今の時期、梅が綺麗な亀戸天神などなので、近いうちに行こうと決めた。