北西に向かって歩いていく。
閑静な住宅街に入っていった。
◆三角公園
◆天神社
左側の狛犬さんに木が立てかけられているように見えたのですが、まだ根が残っている朽木で、動かせないものだった。
続く。
どんどん中野駅に近づいて行く。
細い坂があったり、広い公園があったりで、ちゃんと駅に向かっているのか不安になるくらい閑静な場所だった。
この辺りは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4mほどの土塁が残っていました。
延宝三年(1675)の村の記録には「中野村のうちに900坪ほど土手を築き、空堀を掘ったところがあり、これを昔から城山と申し伝えている。そこはもともと名主・堀江卯右衛門の先祖からの屋敷地で、今は年貢地になり、代々卯右衛門が所持している。」とみえています。
堀江氏は天正四年(1576)戦国大名後北条氏領中野五郷を治める小代官を務め、次いで豊臣秀吉の指令もうけた中野の土豪でしたから、戦国末期の城山は、小城砦を兼ねた土豪屋敷であった事が考えられます。湧水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は、平忠常の城砦跡、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌砦」跡などともいわれています。
◆豊川稲荷大明神
◆東京府立農事試験場の跡
城山公園内に説明板があった。
このあたりから、大久保通りにおよぶ約2.7k?の一帯は、東京府が明治三十三年に設立した最初の府立農事試験場がおかれていました。
江戸時代末頃から、豊かな経験と技術をもつ各地の「老農」と呼ばれる人たちの相互交流にたよる農業改良が行われていましたが、この農事試験場では、新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実施指導に生かして普及する方法をとりました。
試験場の活動は、国の指定補助を受けて園芸部がおこなった、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に少なからぬ影響を与えました。
この新しい農業の象徴ともいえる農事試験場も、都市化の波におされて、大正十三年には立川へ移転していきました。
2017/02/11
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170211/1486900423
立川を散歩しているときに見かけたこの研究所がそうだったのかなと「沿革」を見てみたら、ビンゴだった。
1924年に移転したとあった。
http://www.tokyo-aff.or.jp/center/annai/07index.html
◆浄円寺
google mapにも載ってなくて、中が窺い知れなかったので本当に「寺」でいいのかわからない。
◆中野駅
ゴールです。
江戸川区、江東区を散歩した後だったので、公園が少ないのをかなり実感した。
というのもトイレがないのである。
我慢しながら歩いた場所もあった(w
トイレのある公園、トイレの使えるコンビニに出会ったら、必ず行っておいた方がいいと思う。
・・・・その前にビールを飲みながら歩くのをやめればいいんだけどね。。。。
先程のエリアから南西に進む。
元「神田川支流」、「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」と呼ばれた川があり、現在は暗渠となっている。
◆柳橋跡
■この柳橋は昭和7年9月20日に完成し、昭和38年(1963年)の東京オリンピック前年に暗渠化(街並み整備工事の一環で川の上にフタ)されるまで地元に親しまれて来ました。
■この下に流れる川は杉並区泉2-1にその流れを発し、渋谷区の笹塚〜幡谷〜本町を経由して西新宿五丁目(旧淀橋)から神田川に注ぐ長さ3kmの自然河川です
■特に川の呼び名はなかったが、行政上は単に「神田川支流」と呼び、区域により渋谷区では「神田川笹塚支流」または杉並区では「和泉川」とも呼ばれていた
□また、この先の暗渠では伊丹十三監督の映画の映画「タンポポ」(1985年公開)のラストシーンのロケ地に使われました
□さらに日本の伝説的ロックバンド「はっぴいえんど」の1stアルバム(1970年)のジャケットに写った「ゆでめん風間商店」はこの地で撮影されたものです
メンバー(松本隆・細野晴臣・大瀧詠一・鈴木茂)<1969年〜1972年>
◆時が刻まれたこの場所は、暗渠化後もなお、当時の面影をとどめている数少ない橋跡です◆
◆宝橋
こちらは神田川に架かる橋。
◆長者橋
こちらも神田川に架かる橋。
首都高の入り口が見える。
水源からの距離と隅田川までの距離だね。
No25ということは他に少なくとも24個ありそうだね・・・・。
続く。
24時間勤務アケで、中央・総武線大久保駅から同じく中野駅まで散歩。
線路に沿う形ではなく、丸の内線中野坂上駅を経由して移動。
スタートの大久保駅。
◆稲荷神社
右下の石碑「巴講睦」と書かれているのが気になる。
調べてみると鎧神社の氏子組織とのこと。
鎧神社はここから割と近いところにあり、一度行ったことがある。
というか近くで仕事してた時も含めるとかなり行ってる(w
2016/10/24
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161024/1477806554
◆淀橋咳止地蔵尊
上の稲荷神社のすぐ近くにあった。
◆旧豊多摩郡役場跡地
出ました、役場の跡地シリーズ(w
マークをつけてくれた人はどんなものを参考にしてるんだろう?
是非一度見てみたい。
で、豊多摩郡を調べてみた。
なんと今回はwikiに「淀橋町大字淀橋町字二ツ家291」に設置とあった。
今でいうこの辺りでいいのかは、わからない。
1896年(明治29年)に、南豊島郡と東多摩郡が統合されて発足。
1932年(昭和7年)に、全域が東京市に編入されて消滅したとのこと。
僕が今住んでいる杉並区も「豊多摩郡」だったとのことだ。
碑文が読めない・・・・。
ネットで「渡邊文雄」と調べると俳優さんだった人と、国文学者で、『国歌大観』の共編者という人が出てきた。
後者の方であろう。
「国歌大観」は日本の和歌の集大成であり、その検索のための索引であるとあった。
松下大三郎との共著によるとあった。
間違っていたらご連絡ください。
(o_ _)o))
2023/07/04追記
ご指摘がありましたので再訪。
2023/06/26 新宿三丁目・中野坂上散歩 04 渡邊文雄君頌徳碑/MIC/豊水橋/中本一稲荷神社/中野坂上駅 - ovanの社会科見学
◆小さな貝の博物館
一度お邪魔したことがある。
かなり変わった博物館だった。
2016/01/19
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160119/1453556297
続く。
もう完全に中野区に入る。
以前散歩したことがあるので、なるべく同じ道を通らないようにする。
2016/10/24
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161024
江戸名所図会に「中野に象厩(きさや)を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。
当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また、象にちなんだ調度品、双六(すごろく)や玩具類もさかんに作られました。
中野に来た象は、享保十三年(1728)中国人貿易商鄭大威(ていたいい)が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが寛保二年(1742)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対(きば いっつい)は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。
◆石森製粉の石臼
中野坂上付近では製粉業が発展し、幕末から明治にかけて6社が創業していたとのこと。
展示のあるこの建物は「石森製粉」さんの本社ビルとのこと。
なんと工場は新木場4丁目にあるとのことで、職場がものすごく近い。
今度見に行ってみよう。
続く。
宝仙と名の付く学校が多くなり、宝仙寺という大きなお寺があった。
調べると宝仙寺の関連団体とのこと。
こども教育宝仙大学のほか、宝仙学園短期大学、宝仙学園中学校・高等学校、宝仙学園小学校、宝仙学園幼稚園が隣接していた。
◆庚申塔
◆宝仙寺三重塔跡
宝仙寺三重塔は、この地から南東約100mのところに建っていました。旧地名の塔山は、これにちなんだものです。
この塔は、寛永十三年(1636)に建立され、高さ24m、屋根は檜皮葺きで、江戸唯一の三重塔でしたが、昭和二十年五月の空襲で焼失しました。古写真の実測図から、池上本門寺、上野寛永寺の五重塔とならんで、江戸時代初期の典型的な建造物であったことがわかります。
古記録によれば、中野村の飯塚惣兵衛夫妻が総主となって建立したとあり、かつては夫妻の木造が塔内に安置されていました。当時、寺院の建物は将軍や大名クラスが総主となるのが通常ですので地元の農民が立てたという点でも、きわめて特筆されるものです。
◆犬坂
特に説明板などなかったので現地では何もわからなかった。
調べてみると、江戸時代も末期のころ、将軍が遊猟したときに猟犬が野犬に襲われることがあったので、村人たちが飼い主のいない犬を現在の犬坂下あたりにつないでいたため、犬坂と名がついたとのこと。
◆宝仙寺
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田●純大増正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
●の部分は漢字が出てこなかった。
石臼塚は以前小金井神社で見たことがある。
2017/03/14
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170314/1489885715
あれだけ神社仏閣を見て2つ目なのでかなり希少なものだと思われる。
堀江家は、十二代堀江重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部(ひょうぶ)という人が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の悔恨に着手したとされています。
当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。
堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次(ごようふれつぎ)、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のために果たした業績は大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。
◆やままさ醤油醸造所の煉瓦
やままさ醤油醸造所のレンガ塀
このモニュメントは、明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側一部を移設したものです。
建造は、1889年(明治32年)と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物をいわれている浅田銀行本店を手掛けた、中野在住の棟梁と弟子達によって醸造所の蔵とともに築かれました。
石灰、海藻の「つのまた」、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積と言われるレンガ積み工法で造られています。
当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、ミソ、醤油の醸造は、蕎麦粉製造と共に中野の代表的な地場産業でした。
続く。