2018/10/23 本駒込散歩 01 田端駅/りゅうのすけくん通り商店街/水神稲荷/佛立寺/動坂/駒込公園/道坂遺跡

24時間勤務アケで、田端駅から本駒込駅まで歩く。
この日記のエリアは田端駅から南西方向へ向かう。
前日の予報では晴だったのに、雨が降り始める(涙



◆田端駅




◆りゅうのすけくん通り商店街

「りゅうのすけくん」とは、芥川龍之介が田端に住んでいたことにちなむとのこと。






キャラクターがカッパだね。




◆水神稲荷





◆佛立寺(仏立寺)



◆動坂



説明板1



 この坂の由来については下記の通りである。
千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり』(江戸名所図会)
 元和年間(1615-1624)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度のため諸国を回り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光により現在の本駒込1丁目に移された。(現南谷寺)この本尊は江戸時代から五色不動(赤・白・黒・青・黄)として有名である。
 その路には日限地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在、地蔵は徳源院に移されている。明治26年お堂の修理中地下より土器・石器が発見され、昭和49年には駒込病院敷地からも多数出土している。
 『動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う』(御府内備考)



説明板2

不忍通り本駒込余蘊丁目から駒込病院前を通り、白山へ向かう道で、本郷通りまでの坂をいう。
「動坂」の名のおこりは坂の途中西側に「目赤不動尊」があったことに由来する。かつては「不動坂」と呼ばれていたものであろうが、いつからか略されて「動坂」と呼ばれるようになってしまった。現在もこの目赤不動の旧跡が本駒込四丁目八番にある。
 「江戸名所図会」には「千駄木に動坂の号あるいは、不動坂の略語にて草堂のありし旧地なり」とある。
 また「御府内備孝」は次のように述べている。「動坂は田畑村旧地なり。よりて不動坂と称すべきを上略せるなりといふ」と。
 昭和四十年の新住居表示の実施以前はこの辺を駒込動坂町といっていた。




説明板3

 「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(『江戸名所図会』)
 坂上の北側に、日限地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込一丁目に移った。これが江戸時代有名な、五色不動の一つ目赤不動を祭る南谷寺である。





一富士、二鷹、三なすび発祥の地

動坂のこの案内の件は、WEBでも見つからなかった。
なんでここにあるんだろう?




駒込公園





◆道坂遺跡(駒込公園内)



 八代将軍徳川吉宗は鷹狩など尚武の精神を奨励した。ここは鷹匠御役屋敷となり維新まで続いたところである。昭和49年8月駒込病院の外溝工事中貝塚が発見され、二次にわたり、5か月間発掘調査を行った。それによると縄文遺跡の上に、江戸期〜明治時代のものが発掘された。(都指定史跡)

 縄文遺跡(縄文中期)
1、住居跡・・・22軒(全体で50軒近いと推定)
  その他(遺構)・・・焼礫の集石址(4) 土壙(4)

2、出土遺物
  ・土器・・・阿王台式、勝坂式、加曾利E式など      ・魚類・・・・クロダイ、コチ、アジ
  ・石器・・・打製石斧、磨製石斧、石鏃(やじり)、石皿  ・獣類・・・・鹿、猪など
  ・貝類・・・ヤマトシジミ、マガキ、ハマグリなど     ・その他・・・クジラの椎骨、人頭骨など





続く。

2018/10/23 本駒込散歩 02 旧駒込道坂町/むじな坂/きつね坂/狸坂/旧駒込林町/区立駒込林町公園/高村光太郎旧居跡

道坂から不忍通りに入り、そこから登る坂3つをチェック。
狸坂からはそのまま西へ進む。


◆旧駒込道坂町




 もと下駒込村に属していたが、明治24年に東動坂、西動坂上、西動坂下及び動坂、東京市編入された。
 町名は、町内を不忍通りに下る動坂の坂名からとり、名づけられた。
 動坂の名称は、坂上五色不動で有名な目赤地蔵があったので、不動坂と呼ばれたが、略して動坂となった。
 江戸の不動信仰は、目青、目黄、目赤、目白、目黒の五色不動が有名であった。目赤不動は3代家光将軍の命で、南谷(なんこく)寺(現本駒込1丁目)に移された。




◆むじな坂




google mapに載っていたので来てみたが、説明板は見当たらなかった。




◆きつね坂

こちらもgoogle mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。





◆狸坂




 このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので、狸坂と名づけられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と向かいあっている。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざといい伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。




◆旧駒込林町

 千駄木山の内で、千駄木御林といった地である。
 上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし徳川の薪材をとらせた。
 延享3年(1746)開墾して畑とし、後その内に宅地を設けて御林跡と称えた。当時は下駒込町とした。
 同24年、元下駒込村の内、団子坂、上笹原を併合した。
 同44年には千駄木をとり駒込林町と改称した。町内には、高村光雲(彫刻家、1852〜1934)、高村光太郎(詩人・彫刻家、1883〜1956)父子や、宮本百合子(小説家、1899〜1951)が住んでいた。





◆区立駒込林町公園




高村光太郎旧居跡



 高村光太郎明治16年(1883)〜昭和31年(1956)〕は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5-20-6)に移り、そこで育った。
 東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、「明星」に寄稿し、「パンの会」にも参加した。
 明治45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変りなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914)長沼智恵子と結婚、昭和13年(1938)死別後は一人で暮らした。
 昭和20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和27年中野区桃園(ももぞの)町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。




染井霊園のお墓に行ったことがある。
智恵子さんとお父さんと眠っていらっしゃった。

http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180905/1536236629



続く。

2018/10/23 本駒込散歩 03 千駄木公園/川端康成居住跡/西林ひろば/徳源院/常徳寺/養源寺/蓮光寺

まだまだ西へ進む。
文京区のこの辺りは来ているはずだと思ってたんだけど、初めてみるところだった。
お寺ばっかりのエリアに突入。


千駄木公園




川端康成居住跡

google mapに載っていたので来てみたが、説明板など見当たらなかった。




◆西林ひろば



◆徳源院


日限地蔵(ひぎりじぞう)



山門




◆常徳寺



身代わり地蔵尊




山門



◆養源寺






蓮光寺



鎮守社妻恋稲荷大明神



山門



平野金華墓/最上徳内


平野金華墓
 江戸時代中期の儒学者で、名は玄沖、字は子和、金華は号で通称源右衛門といった。元禄元年(1688)陸奥で生まれた。幼い時に孤児となり、親族の計らいで江戸に上り、荻生徂徠に就いて古文辞学を学んだ。生活に追われ書籍を買うことも出来ず、書架には「左伝」「礼記」「荘子」「通鑑」の抄書など数巻あるだけであったが、文章を縦横に駆使し、人びとを驚かせた。陸奥守山藩の藩儒となった後も、端午の節句に新服を着るよう主君の命令があり、薄給のため妻の着物を着て出仕し、即日俸米を加増されたという。
 享保十七年(1732)七月二十三日45歳で死去した。著書に「金華雑譚」「酈陽遺編」「古学範」などがあり、藩主松平頼寛(黄龍)は、自ら「金華稿冊」を編纂した。謚を文荘先生という。



最上徳内
 最上徳内(1754〜1836)は江戸末期の北方探検家で、出羽国村山郡楯岡村の農家の子として生れます。天明元年(1781)、江戸に出て、最上徳内と改めます。のちに本田利明の門に入り天文・測量・地理などを学びます。天明五年(1785)、利明に変わって徳内が蝦夷巡検使に加わりました。蝦夷沿岸を巡視し、さらに千島・樺太などを調査します。
 寛政一〇年(1898)には近藤重蔵とともに択捉島へ渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てます。文政九年(1826)シーボルトが江戸に来たとき、その求めに応じて蝦夷地測量図を貸し、アイヌ語辞典の編纂を援助します。天保七年(1836)83歳で没します。




続く。

2018/10/23 本駒込散歩 04 駒込大観音/旧駒込蓬莱町/庚申待百万遍講中庚申塔/光源寺/花陽稲荷/清林寺/栄松院

まだまだ西へ進む。
学生が多いと思っていたら駒込中学校・高等学校の下校の時間にあたったみたいだ。



駒込大観音











◆旧駒込蓬莱町

 元文年間(1736〜41)町屋が開かれた。町内向側に寺院4か寺(瑞泰寺(ずいたいじ)・栄松寺(えいしょうじ)・清林寺(せいりんじ)・光源寺(こうげんじ)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺(ちょうげんじ)・浄心寺(じょうしんじ)の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。
 明治5年、浅嘉町(あさかまち)の一部と、高林寺(こうりんじ)門前、浩妙寺(こうみょうじ)、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。
 町名は、中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。
 明治13年駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。
 町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した”お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。





◆庚申待百万遍講中庚申塔



 青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。
 塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。
 本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。





◆光源寺


明珍本家墓

平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141〜1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。
光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789〜1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。





◆花陽稲荷神社






◆清林寺




◆栄松院






薩摩浄雲の墓/初代 松本幸四郎の墓

薩摩浄雲の墓>
 文禄4年(1595)-寛文12年(1672)。江戸初期の浄瑠璃太夫。上方の出身。通称虎屋次郎右衛門。別に江戸次郎右衛門、薩摩太夫といった。晩年に剃髪して浄雲と号した。
 浄瑠璃を修め、寛永初年の頃江戸に来て「江戸薩摩」をおこす。当時、江戸随一の人形遣い小平太を擁し、操りの妙と人形衣装の華美と舞台装置の良さで好評をはくした。


松本幸四郎の墓>
 延宝2年(1674)-享保15年(1730)。江戸中期の歌舞伎俳優。下総国の生まれ。
屋号は初代のみ大和屋。はじめは久松小四郎といって女形を勤める。のち本姓の松本に戻り立役となり幸四郎と改名した。
 二代目市川団十郎と並ぶ名優のひとりと評された。






続く。

2018/10/23 本駒込散歩 05 瑞泰院/常瑞寺/旧駒込蓬莱町/秋葉神社/本駒込歩道橋/駒込土物店跡/天栄寺

まだまだ西へ進む。
相変わらず雨が降ったりやんだり。



◆瑞泰院






◆常瑞寺






◆旧駒込蓬莱町

前回の日記にも出てきた旧町名板。
常瑞寺の門前すぐのところにまたあった。



秋葉神社




本駒込歩道橋





駒込土物店跡(天栄寺境内)



 神田および千住とともに江戸三大市場の一つであり幕府の御用市場であった。
起源は元和年間(1615〜24)といわれる。初めは、近郊の農民が野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の”さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々は”駒込辻のやっちや場と呼んで親しんだ。また富士神社(本駒込3丁目)一帯は駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど土のついたままの野菜がである”土物”が取り引きされたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は”駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは”駒込青果市場”と改称した。
 街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。




◆天栄寺





本駒込駅でゴール。
前日の天気予報と全然違う天気・・・・。
まさかこんなに雨が降るとは思わなかった。
まだまだ見たいところはたくさんあったので、また近辺を散策しようと思ってます。