2017/08/21 01 日本橋散歩 02 一石橋/一石橋の迷子しらせ石標/竹久夢二港屋跡/西河岸橋/日本橋

日本橋川沿いにどんどん東へ向かう。
日本橋川を覆うように高速道路があるので圧迫感がある。
いつかは無くしてほしいなあ。



◆一石橋





一石橋の迷子しらせ石標



 江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
 柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。



で、上の写真をよく見ると、下の方に「不」の字に似たマークみたいなものがあるが、几号水準点である。
市ヶ谷亀岡八幡神社文化財になってたものだね。
その時の日記はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170723/1501323849



竹久夢二港屋跡




 情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(1884〜1934)は、大正3年(1914)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で「港屋」は日本商業美術史上重要な意義を持つものでありその存在をながく記録にとどめるためここにその記念碑を設置し、個人の業績を讃えるのものである。
 なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約13米、間口約2間(3.6米)であった。



しかし、読みにくいね・・・・・。
こういう時のためにミラーレス買ってよかった。
拡大すると何とか読める(w



日本橋

竹久夢二港屋跡すぐ近くに日本橋駅A1出口があった。



日本橋










 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、昭和四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、平成十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。




日本橋魚河岸跡

 日本橋 から江戸橋 にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸 」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売りだしたことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢のよい取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、対象十二年(1923)の関東大震災 後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸の有ったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑が有り、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。




日本国道路元標




 日本橋は1603年に創築され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に築橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の現在の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノベール平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。




上の写真左側にある日本国道路元標。
これ、レプリカで本物が見えづらいところに存在するという!
探しに行こっと(w


里程標

読み方に自信がないので調べたら(りていひょう)で合ってるみたいだ。
ここから  〇〇里  ってことだろうが、「粁」=キロ ってなってるね。



まだまだ散歩は続く。