2017/08/27 01 大手町散歩 03 和気清麻呂公銅像/震災いちょう/不二ラテックス/一橋徳川屋敷跡/一ツ橋/錦橋

和気清麻呂銅像




 奈良朝末期の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱天平親神護一年(765)道鏡が好意をうかたっが時、宇佐八幡の信託をきき道鏡の野望を挫いました。
 清麻呂別部穢麻呂と改名され大隈(鹿児島)に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰しました。
 光仁桓武天皇深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しています。
 この像は、昭和15年紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。




◆震災いちょう




 この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。
 大正十二年(1923)九月の関東大震災により一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。
 その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒される事になった際、中央気象台長岡田武松氏がこれを惜み、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。


岡田武松(1869〜1924)
 千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長を経て明治三七(1904)年海洋気象台の創設とともに台帳となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象観測設備を充実させたことや、測候技能館養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正一三(1924)年にイギリスの王立気象学会からサイモン金牌をおくられ、昭和二五(1913)年には文化勲章を受ける。

清野長太郎(1869〜1924)
 香川県に生まれ、東京大学法科卒業後、旧内務省警保局にはいり、富山県理事官・神奈川県理事官を経て内務省事務官となり、明治三六(1903)年に人口学版国会議の委員としてベルギーへ派遣される明治三九(1906)年に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二(1913)年までこの職にあった。
 大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。


お二人ともすごい人ですなあ。



◆不二ラテックス

何の会社でこのビルの形は何なのかはご想像にお任せする(w



◆一橋徳川屋敷跡


ここも工事中・・・・。
でも、こうやって写真だけでも残しておいてくれると助かるね。


 一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
 一ツ橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張紀伊・水戸)にも将軍家となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は二世治済(はるさだ)の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。



◆一ツ橋








 この橋を一ツ橋といい、内濠川に架かる見附橋です。徳川家康江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624〜1645)には、一ツ橋とかかれています。
 橋のちかくに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八大将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人して居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
 明治六年(1875)一つ橋門を撤去。現在の橋は大正十四年(1925)架設、長さ19.6メートル、幅28メートル、コンクリート造り。
 橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。



一橋大学の名前の由来もここにあるんだね。



◆錦橋





橋の説明板がなかったなあ。
wikiで調べると、
『完成は1927年(昭和2年)5月5日で、震災復興橋の一つとして架設された。中央のアーチと、左右に対称の半連アーチを持つコンクリート製アーチ橋である。名称は近隣の地名である錦町および錦町河岸からつけられたが、これは近くに「一色」という武家屋敷が2軒あり、「二色→錦」と転化したものである。』



散歩はまだまだ続く。
首都高をくぐったところから、次の散歩エリアへ。