2017/09/05 01 江東散歩 出世稲荷/伏見稲荷/永代公園/永代橋/赤穂義士休息の地

24時間勤務アケで・・・・
越中島から神田まで散策。
メインは水天宮さんへのお礼参り。



出世稲荷神社

2017/06/11 の散歩で行きそびれた場所。




伏見稲荷神社

2017/06/11 の散歩で行きそびれた場所。




鳥居がビニールテープでぐるぐる巻きになってる・・・・・。




◆永代公園






大島川水門

2017/06/11 の散歩では、裏から写真を撮った。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170611/1497445302



大島川水門の説明板

隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯は、ゼロメートル地帯といわれ、満潮時には大部分が水面下となり、過去にたびたび大水害に見舞われてきました。外郭堤防、水門、排水機場は、安全を守るはたらきをしています。




水辺のまちの形成史・・・・400年

江東地区の開発は、徳川家康の入府による江戸のまちの拡大とともにに始まります。
この頃までの江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島、大島、永代島、漁師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。
この頃、石島や千田あたりは、まだ海でした。




[江戸中期]1658→1803

小名木川は、行徳の塩を江戸に運ぶために開さくされました。利根川水系を利用した船運の終着地として物資流通の要路となり、番所橋付近には、船の関所として船番所が設けられました。
また、堅川、大橋川、横十間川などの開さくも進み、新大橋、永代橋がかけられ江東地区が大いに発展しました。
現在の佐賀を中心とした隅田川の沿岸には、コメ、雑穀、油、干鰯(か)等の倉庫が立ち並びg問屋取引が盛んに行われました。木場には、材木商が、江戸市中から移ってきました。
亀戸、砂村などは江戸の近郊農業地として、つまみ菜、亀戸大根、砂村西瓜、砂村丸茄子などを供給しました。





[江戸後期→明治初期]1804→1876
◎この時代は、江東地区には多くの文人塁客が住み独特の文化が生まれました。
今でも狂歌師、国学者、画家、横綱などの墓碑が数多く残っています。また、風光明媚な景色や、寺社の開帳、祭礼などの年中行事を中心として、江戸市民の行楽地が区内各所にありました。
辰巳八景や、亀戸梅屋敷、五百らかんさざえ堂などは、浮世絵や歌曲などで当時の賑わいをうかがうことができます。
明治維新(1868年)により江戸は東京に改められ、現在の江東区の区域は、東京府下となりました。




[明治中期→大正中期]1877→1922


◎明治から大正にかけてのこの時代は、産業革命の時代です。江東地区には多くの工場が立地します。
清澄の浅野セメント、亀戸の日清紡績、東洋モスリン、日本化学工業、大島の大日本人造肥料、富士瓦斯紡績、砂町の大日本精糖などです。
埋立はごみ処理、隅田川のしゅんせつ土により、現在の東陽1丁目、木場1,6丁目、塩浜1,2丁目、古石場3丁目で行われました。
荒川放水路の開さく、砂町下水処理場の完成したのは大正12年でした。



[震災→昭和初期]1923→1945]

大正12年関東大震災は江東地区にも大きな被害を与え、深川区の焼失家屋約49,000戸、亀戸町400戸、大島1,400戸、砂町1,300戸に及びました。
復興事業が直ちに始められました。現在の街並みは、この時の区画整理でできました。また、現在の大部分の橋がこの時整備され、主要なものは鉄橋となりました。
宅建設は、同潤会が発足し、砂町住宅、猿江共同住宅、清砂通りアパートの計画的集合住宅が始められます。
重工業の発展とともに工場が進出し、京葉工業地帯の一大拠点となります。
埋立は枝川1,2丁目、越中島3丁目、豊洲1〜5丁目、東雲1,2丁目で行われました。





[戦災→復興]1946→1955


◎昭和22年(1947年)、江東区は、深川区城東区の両区を合併して誕生しました。
戦争が終わり、疎開者の帰京、戦地からの復員、引き上げなどで人口が急激に増加し、都営住宅の建設が進め得られました。
一方、この頃は、水害に弱くキャスリン台風、キティ台風で大きな被害を受けています。特にキティ台風では、台風の通過が東京湾の満潮時と一致したため、区内のほとんどが浸水し、罹災者154,134人、床上浸水23,493戸でした。





[高度経済成長期]1956→1973


◎昭和30年代に入って、地盤沈下による水害の危険性が増した江東区の区域を守るため、外郭堤防の工事が始まります。また、地下鉄東西線首都高速道路7号線も完成して、区民の生活の安全性、利便性が向上しました。
工場の区外移転に伴って大規模な集合住宅が次々と建てられました。大島4丁目公団、大島6丁目公団、南砂2丁目公社、北砂5丁目公団住宅などは企業跡地です。
南部地区の開発も進められ、夢の島の埋立、辰巳の建材ふ頭、豊洲6丁目の東京ガス東京電力、鉄鋼ふ頭、新木場地区の整備が行われました。





1974→1998


◎昭和48年代に江東区役所が現在地、東陽4丁目に移転し、これまで第一・第二庁舎に分割されていた業務が統合されました。
昭和50年代に入ると扇橋閘門の完成に伴う城東地区の内水位低下により、水害への安全性が一層増しました。
また、江東区を建て横に走っている仙台堀川横十間川も親水公園化され、区民に親しまれる公園として、変貌しました。
交通網も、地下鉄新宿線の開通に伴い、東と西を無図部交通が一層便利になりました。
昭和居60年代に入ると川を利用した水上バスの運行や都心と臨海部を結ぶ有楽町線の開通に伴い、臨海部の開発が進んできました。
江東区の面積も臨海部に増加していきました。この臨海部は江東区の海の玄関として、また、品川・江戸川を結ぶ拠点として発展していくことと予想されます。




この道に説明板が並んでました。




永代橋




 永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正十五年(1926年)十二月に竣工した。
 永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比七分の一の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線上の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた壮重な造形により、力学的合理性に基く近代的橋梁日を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚二基と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師竹中喜忠らである。




赤穂義士休息の地



赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角 の門下として徘界の友でありました。
 元禄十五年(1702年)十二月十四日、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋 へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。



散歩は隅田大橋を渡って水天宮の方へ。
続く。