2017/09/26 飯田橋散歩 06 飯田橋/東京区政会館/飯田橋/東京農業大学開校の地

ラスト。
ご飯を食べて、これから書く場所を散策する。


飯田橋

天正(てんしょう)十八年(1590年)、徳川家康は領主として江戸にやってきました。関東入りしてほどなく、家康は現在の飯田橋周辺を視察しています。このとき案内役を買って出たのが、飯田喜兵衛(きへえ)という住人でした。喜兵衛の懇切丁寧な案内を、家康はよほど気に入ったのでしょう。視察後、彼を名主に任命し、さらに土地の名前まで、喜兵衛にちなんで飯田町(いいだまち)とするよう命じたのです。その後、この界隈は武家地となったため、正式な町名をもっていませんでしたが、「飯田町」は通称として使われ続けました。
明治五年(1872年)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目〜六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのでした。そして昭和八年(1933年)、飯田町四丁目の北側、同五丁目と六丁目などが、新たに飯田町二丁目となりました。
飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治十四年(1881年)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。その後、明治二十三年(1890年)に修築されたのち、同四十一年(1908年)には鉄橋に、昭和四年(1929年)にはコンクリート製の橋に改良され、現在に至っています。
その橋の名が、町名として採用されたのは、昭和四十一年(1966年)のことです。このとき、飯田町二丁目は町中をつらぬく目白通りを境に、東側が飯田橋三丁目、西側は富士見町二丁目の一部を編入して飯田橋四丁目になりました。



◆東京区政会館

右側の低い建物の中に居酒屋「北海道」がはいっており、
ランチを食べる。
美味しかった!





飯田橋

江戸時代千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通り飯田橋もありませんでした。
明治初年(1868)に簡単な木橋が架けられましたが、明治十四年(1881)には鉄製の橋にかわり、昭和四年(1929)に現在の橋がかかりました。




東京農業大学開校の地

 明治二十四年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治二十五年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。



ここでゴール。
体力的にはまだまだ歩けるんだが、あとで整理することを考えるとね・・・・・。
郊外でゆっくり散歩したくなった(w