2017/10/01 追浜散歩 03 烏帽子巌之跡碑/明治憲法起草地記念碑/夏島貝塚/追浜公園

第三海堡を見学した後、google mapの地図を見ると貝塚などあるようなので、足をのばしてみる。
ところどころに史跡も見つけた。



◆烏帽子巌之跡碑




 烏帽子岩は烏帽子島ともいわれ、追浜の砂浜が東につきる突端に存在していた。大正七年に海軍航空隊の建設に伴う飛行場造成のため切崩され、消滅した。本碑はこれを記念して、昭和二年に建立されたものである。
 当時の形状は名の如く烏帽子の形をしたもので、標高十五メートル、周囲約二百メートルで、海を隔てて夏島と対していた。江戸時代には旅人や近傍の人たちは、この岩と夏島との間を海路往来していたもので、その風光明媚な自然景観は一幅の絵を見るようであったという。
 このたび、旧飛行場地先を、さらに日産自動車株式会社により埋立てられたため、記念碑を本位置に移設して、その保存を図ったものである。
 なお、烏帽子岩が存在していた位置は、本碑より北北東百五十メートルの処である。




なんとそんな風光明媚な島があったんだねぇ。
見たかったなあ。
よほど注意してみていなければ、見逃してしまいそうな場所にあった。




明治憲法起草地記念碑



伊藤博文らが明治憲法の起草をした夏島の別荘跡地に、大正15年(1926)11月、草案に加わった伊東巳代治、金子堅太郎らが発起人となり、大正十五年に建立された。昭和五十年に現在地に移された。




 この記念碑は、現在地から南方二百メートルの場所に、大正十五年十一月に建立された
ものである。
 当時、明治憲法草案起草の関係者であり記念碑の建立発起人の一人であった金子堅太郎の言によれば、その場所は、伊藤博文の別荘の草庵起草の室にあてられた十二畳半の部屋であったという。
 記念碑は、太平洋戦争後荒廃していたが、当時この地で創業していた富士自動車株式会社の手によって、一部原形を変えて改修され昭和二十六年二月再度除幕された。
 このたび、元の位置を含む一帯が、日産自動車株式会社に帰属することとなったので同社と協議のうえ現在地に移設させ、明治憲法草案起草の遺跡を示す唯一の記念碑として永く後世に伝えようとするものである。


※ここから小さい字


 ちなみに、この碑の外面は、七十六個の石からなるが、これは明治憲法の七十六箇条を意味し、基石の縦横各二十二尺二寸一分一厘の長さは、憲法発布の明治二十二年二月十一日を示したものである。





◆夏島貝塚




夏島貝塚縄文時代早期初頭の貝塚で、昭和25年と30年に明治大学が発掘しました。混土貝層(こんどかいそう)をはさみ三層の純貝層を確認し、層ごとに含まれる出土遺物の違いから、縄文時代早期の土器編年(夏島式土器などの土器形式を新旧関係に基いて序列したもの)の確立や当時の漁撈活動(ぎょろうかつどう)の解明に大きく貢献しました。
 主な出土遺物は縄文時代早期・前期の土器、石鏃(せきぞく)や石斧などの石器、釣針などの骨角器、当時の人々が食べて捨てたマガキやハイガイなどの貝殻、魚骨(マグロやクロダイなど)、鳥骨(キジなど)、獣骨(イノシシやタヌキなど)です。
 特に、第一貝層から出土した縄目模様の尖底深鉢方(せんていふかばち)型土器は、「夏島式土器」と命名され、縄文時代早期初頭に位置付けられました。
 また、夏島式土器と同じ貝層から出土した木炭と貝殻を使って、わが国で初めての放射性炭素年代測定法を試みたところ、今から約九千五百年前という数値が産出され、従来の年代観を一新する成果に、当時、大変大きな反響を呼びました。
 夏島貝塚は国内最古級の貝塚であるとともに、日本考古学研究市場に多大な成果を残した重要な史跡です。




草で覆われてるが、この後ろに柱状の碑があるのが確認できた。




◆追浜公園

中に入ってみようと思ったけど、結局入らなかったなあ。




散歩はまだ続く。