2017/11/02 01 紀尾井町散歩 02 黒田清輝邸跡/弁慶橋/ 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡/ホテルニューオータニ/近江彦根藩井伊家屋敷跡

旧李王家邸の周囲を散策する。
この辺も多くの史跡がある。



黒田清輝邸跡



黒田清輝ここに住む
重要文化財の「湖畔」や「智・感・情」などの作品を描いた明治・大正期の洋画家。この年、これらの絵画をパリ博に出品し、銀賞を受賞した。



◆弁慶橋





 この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。
 ところで、ここには江戸時代は橋は架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。
 ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(1889)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。
 和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。
 現在の橋は、昭和六十年(1985)12月に改築されたもので、全長41.06m、幅22mです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。




そういえば、その弁慶橋があったところを巡ったことがある。
2017/8/15
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170815/1502959902





紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡



 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。
 紀伊徳川家は、徳川家康の十男便頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。
 明治5年(1872)、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。




ホテルニューオータニ


日本庭園に入ることができたので散策した。





google map に、旧伏見宮邸跡と書かれているあたりが写真の場所。
庭園はその名残なんだそうである。
この場所には、加藤清正下屋敷があり、後には井伊家中屋敷があったとある。
伏見宮は、かつてあった日本の宮家の一つで、昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになり、この宮家もなくなったとのこと。



大谷米太郎

ホテルニューオータニの創業者
元「力士」なんだそうである。



大谷米太郎翁は 明治三十四年七月二十四日富山県に生まる 三十一歳実業家を志して上京
艱難辛苦を乗り越え大谷重工業株式会社を創業し業界に巨歩を占むるに至る 更に昭和三十九年
東京オリンピック開催に当り国家の要請に応えてホテルニューオータニを建設 現在では国内外に
十六のホテルを有する 観光事業に貢献するところ大なるものがありしが、昭和四十三年五月十九に逝去 当社の設立から二十五年目を迎えここに故朝倉丈夫先生作の銅像を安置し故人の功績を永く顕彰せんとす




◆近江彦根藩井伊家屋敷跡



 この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
 井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦い徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした井伊直弼は、特に有名です。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。




散歩はまだまだ続く。