2017/11/04 江古田散歩 06 中野区立歴史民族資料館 「山崎家茶室・庭園」

前に一度来たことがある「中野区立歴史民族資料館」に行ってみた。
今回は本館ではなく、隣接する旧山崎家の茶室と庭園の敷地内に入れるというので訪ねてみた。








建物の中には入れなかったが、外から撮影することはできた。





「山崎家について」
 この地は、江戸時代江古田村丸山組名主であった山崎家の屋敷跡である。
 山崎家は、代々喜兵衛を名乗っており、二代喜兵衛の頃、農業のかたわら醤油製造業を初めた。文化・文政期(1804〜29)には中野村や江戸千駄木に支店を出すまでに発展し、この頃のいくつかの紀行文にもその名を記されるほど知られるようになった。
 山崎家が名主になったのは三代喜兵衛の時で、行こう、代々名主を世襲した四代・五代喜兵衛の時、文化・文政・天保期(1804〜47)に隆盛を誇り、この茶室・署員もこの頃に建てられたものである。
 五代喜兵衛の天保四年(1833)には、徳川御三卿の一つ田安家侯を迎えるなど、上流階級との接触もあった。
 六代喜兵衛の時、明治維新を迎え醤油製造業を廃業したが、戸長・東京府議会議員・野方村村長と、地域行政の責任者としての立場は変わらなかった。


「書院・茶室について」
 この書院・茶室は天保十二年(1841)に山崎家の離れとして建てられたもので、西側に六畳の茶室、東側に六畳と八畳の座敷を持つ書院の二つの部分で一棟を構成している。
 茶室部分には炉はなく、いわゆる茶道でいう本格的な茶室の役割というより、この地に訪れた、幕府役人などの迎賓・宿泊施設として、最上級の客間も兼ねていたものと思われる。
 六畳と八畳の座敷の間は板襖で仕切られており、ここに彩色豊かな唐子の絵が描かれている。この絵は、弘化四年(1847)に江古田氷川神社の天井格子絵を描いた絵師雪洞がここを宿泊所としており、その時に描いたものといわれている。
 また、この茶室には太田蜀山人など江戸の文化墨客の多くが宿泊したと伝えられ、この頃の江戸周辺農村の文化レベルの高さを示す遺構としても、極めて重要なものである。






散歩はまだまだまだ続く。