2018/11/05 01 日暮里散歩 04 御殿坂/啓運寺/諏訪大通り/経王寺/延命院/夕焼けだんだん

日暮里駅の西側を散策。
このあたりは数十年前に仕事できたことがあるところ。
あまり記憶がない(w


◆御殿坂



 文政十二年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には、長さ十五間(約27.3メートル) 幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が一致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。



 西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。 江戸時代から用いられていた呼称である。
 当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。
 天保九年(1838)刊の『妙めお(みょうみょう)奇談』は,寛永(1624~44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。




◆啓運寺


啓運寺毘沙門堂




 啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院で、法要山と号す。上野にあったが、明治十八年に現在地に移転。毘沙門天多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つであるが、独立して福徳富貴の神としても信仰されている。当寺の毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三戸伏、妙法、七守庚申三戸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。





◆諏訪大通り






◆経王寺



経王寺大黒天堂



 経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
 慶応四年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。




◆延命院


七面大明神と延命院の大椎(おおしい)
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 日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局(みさわつぼね)。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院(えしょういん)日長が、三沢局の信施(しんせ)を受け、甲州身延山七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという。
 七面大明神には、胎内に慶安三年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。



大椎



延命院のシイ

 延命院は慶安元年(1648)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。天保七年(1836)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政二年(1855)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高16.2m、幹回り5.5mの巨樹でしたが、平成十四年(2002)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。




延命院でイロイロ調べていたら、「延命院事件」なるものが・・・・。
延命院 (荒川区) - Wikipedia





◆夕焼けだんだん




地名の由来は、『平成2年に石段が改装された際の愛称募集時に、作家・タウン誌『谷根千』編集者の森まゆみ命名した。』とwikiにあった。




続く。