千駄木駅を離れどんどん南に進む。
起伏が激しくなってくる(-_-;)
本像は、江戸時代に東都六地蔵の第二番・宝珠地蔵として有名であった地蔵尊である。高さ233.6㎝を測る鋳造仏である。
東都六地蔵とは空無上人 が元禄4年(1691)頃に建立したものであり、いわゆる「始めの六地蔵」といわれるものである。建立場所は、一番駒込瑞泰寺(文京区向丘二丁目36番1号、昭和61年再建)、二番千駄木専念寺(本像)、三番日暮里浄光寺(荒川区西日暮里三丁目)、四番池之端心行寺(もと台東区池之端。府中市紅葉丘二丁目に移転)、五番福聚院(台東区上野公園)、六番浅草寺内正智院(台東区浅草二丁目)である。
本像には、造立願文や人名等が鏨によって彫り込まれており、多くの人々の助力によって造られたことがわかる。
東都六地蔵 のうち、造立当初の全容を残す確かな遺品は本像を含めて極めて少なく、貴重である。
◆駒込林町(御林稲荷社境内)
千駄木の内で、千駄木御林といった地である。
上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし徳川家霊廟用の薪材をとらせた。
延享3年(1746)開墾して畑とし、後そのうちに宅地を設けて御林跡と称えた。当時は下駒込村に属していた。
明治2年、別れて1か町として、駒込千駄木林町とした。
同24年、元下駒込村の内、団子坂、上笹原(かみささはら)を併合した。
動44年には千駄木をとり駒込林町と改称した。町内には、高村光雲(彫刻家、1852~1934)、高村光太郎(詩人・彫刻家、1883~1956)父子や、宮本百合子(小説家、1899~1951)が住んでいた。
日本武尊(やまとたけるのみこと)がここの林に駒を集め、木々につながれたのを「駒こみたり」といったので、今までの素蓋烏(いるさ)山を改め駒込林と唱えたという。(『御府内備孝』)農民が住むようになり駒込村となった。
むかし雑木を伐り出し、一日に千駄にも及び千駄木と称した。また、太田道灌が栴檀(せんだん)の木を植えたので、栴檀木林(きりん)から後に千駄木と改めた。(『新編武蔵風土記』)
◆薮下通り
この写真奥の方に進むと森鴎外記念館。
◆だんだん坂
google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
ものすごく急な階段・・・・・。
◆旧駒込千駄木町
左に小さな路地があり、その先は「お化けだんだん」と呼ばれる階段がある。
続く。