2018/11/07 千駄木散歩 06 郁文館夢学園/海蔵寺/眞淨寺/顕本寺/大林寺/八百屋お七墓所/浄心寺坂

まだまだ南に移動。
さきほどと同様坂が多いが、先ほどのエリアの急な階段坂よりはマシになる。
若いママさんたちは電動アシスト自転車で子供乗せたままサクサク登って行くけど、一昔前は大変だったろうなあ。



郁文館夢学園


郁文史跡巡り

明治22年(1689年)東京都本郷区駒込蓬莱町28番地(現在地)に、私立郁文館は設立されました。郁文館という校名は、論語の一節「子曰く、周は二代に鑑みて、郁郁平として支なる故。呉は周に従わん。」に由来します。
 明治36年3月3日から同39年12月までの3年10ヶ月の間、郁文館のすぐ裏手に夏目漱石が住んでいました。すでに郁文館は創立15周年を迎えていたことになります。この場所で創作活動を開始した漱石は「吾輩は猫である」で文壇にデビューしますが、第八章に郁文館を「落雲館」として登場させ悪戯生徒への憂さを晴らしておられます。
 昭和20年(1945年)3月、郁文館も戦災により鉄筋3階建て校舎一棟を残して他全校舎が焼失しました。21年~26年校舎復興工事を行いますが、往時の校門門柱を現校門内に移設保全しています。
 昭和54年(1979年)校庭下に創立90年総合体育館が落成、昭和63年(1988年)創立100周年記念「総合学習センター」が竣工、現校門校舎に当時の外壁石材を移設しています。
 平成18年(2006年)4月、学校法人名は郁文館夢学園に改称され、19年~22年新たに新校舎整備工事が進められました。
 平成22年4月郁文館は創立120周年を迎えています。



海蔵寺



お地蔵様



弥勒行者(みろくぎょうじゃ)の墓
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 身禄行者 (寛文11年から享保18年・1671~1733) は、食行 (じきぎょう) 行者ともいい、江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖 として知られた人。
 庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩 ( えぼしいわ ) 近くの石室で断食入定 ( だんじきにゅうじょう、食を断って死ぬこと ) した身禄の教えは、広く庶民の信仰をあつめた。
 身禄行者の骨が分骨埋葬されたといわれる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられている。
 左にある「参食行身禄狗 ( みろく )」とある小さな墓は始めの墓である。
 ちなみに富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれた。
 区内にある「富士神社」は今に残る富士信仰の史跡である。



弥勒行者の墓




山門



◆眞淨寺








顕本寺


子育地蔵






◆大林寺


弁財天・大黒天安置







八百屋お七墓所

工事中で中に行けないかと思った。
近づくと狭い通路がある。




狭い通路を通った先にあった。
さらに先には円乗寺の本堂があるんだと思うが、檀家以外立ち入り禁止の看板があった。


お七の墓




 お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年〔1682〕12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683)3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。3基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。






浄心寺

円乗寺の門前にある坂。
google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
WEBで調べると説明板はあるみたいだなあ・・・。
「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)
 浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。」とあった。 





続く。