やっとゴールの東大前駅に着いたが、東大の中に入ったあと、西教寺というお寺に参って駅に戻った。
「東京市本郷高等小学校」は明治41年(1908)4月、「本郷尋常小学校」(現在地・文京区立第四中学校)の一部を仮校舎として開校した。この年より新しく設けられた高等小学校は、尋常小学校卒業生を対象に修業年限2~3年の普通教育をほどこす小学校で、旧本郷区内に一校設けられた。開校当時の生徒数は431名。10学級。
明治43年(1910)5月、この地(旧駒込東方町17)に市内では初めてという木造3階建て校舎を新築し移転。明治39年「本郷区第一実業補習夜学校」、大正7年「東京市立第三実業補習学校」を併設。
昭和8年(1933)、「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
昭和16年(1941)4月、「東京市本郷第一国民学校(高等)」となる。
昭和22年(1947)3月、学制改革により廃校。同年4月から新設の「文京区立第六中学校」になる。
◆旧駒込東片町(本郷高等小学校跡すぐ脇)
むかしは、岩槻街道と中山道に沿って発達した宿駅で駒込宿の名があった。駒込村の内であった。
寛永年間(1624~44)、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので、駒込片町といった。
明治2年、徳性寺(とくせいじ)門前、九軒屋敷、追分町の残地を併せた。中山道の東側にあるので駒込片町とした。
同5年、大円寺、正念寺などの寺地を併せた。
中山道と岩槻街道との分岐点が追分で、一里塚があった。東大の農学部正門前の角に現在高崎屋がある。宝暦年間(1751~64)の創業で酒屋と両替商を兼ねていた。
”くたびれたやつが見つける一里塚。(古川柳)
一里塚 は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎(えのき)が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
◆東京大学
秋田犬のハチは大館市に生まれ、生後50日ほどで東京帝国大学 農学部の上野英三郎博士(農業工学・農業土木学)に贈られた。犬好きだった博士はハチを大切に育て、大いに可愛がり、当時は駒場にあった農学部への通勤や渋谷駅からの出張にはいつも送り迎えをさせた。学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んで敬意を表した。およそ1年半が過ぎた1925年5月21日、博士は大学構内で急死した。それからハチは死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めた。生前、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口でひとり待つハチに驚き、この像のように、互いにじゃれあって喜んだという。
東京大学農学資料館
◆西教寺
区指定文化財とのこと。
西教寺表門
徳川家の重臣、酒井雅楽頭(井伊家と並ぶ大老の家柄)の屋敷から明治7年(1874)移築された。
複雑な寸法体系を持ち、近世初頭の標準からはずれる独自の特色を多く持ち、構成に独特な品格をもたらしている。
大正12年の関東大震災に被害を受け、重量軽減のため瓦葺から銅板棒葺に改めるなど、一部修理が行われた。
◆東大前駅
ゴールの南北線東大駅前。
ここから乗るのは初めてだなあ。
今回の散歩でも坂に苦しめられる(w
十数年前根津で働いていた時に散策しまくったエリアなんだが、見てなかったところがいっぱいあった。
今度行ってみたい文化財を二つ見つけることができて嬉しかった。
日程を調整して見学に行くことにする。