2018/11/14 谷中散歩 04 観智院/永久寺/明王院/龍谷寺/本通寺/天竜院/全生寺

まだまだ西へ進む。
この日記のエリアは全部お寺・・・・・。



◆観智院

幼稚園併設のお寺。
境内で園児が遊んでいるので、僕は完全に不審者扱いだったろうなあ(汗



観智院火陰不動尊




六地蔵






◆永久寺



仮名垣魯文




 幕末・明治時代の戯作者、新聞記者。本名は野崎文蔵、号を鈍亭。猫々道人などといった。文政十二年(1829)江戸京橋の生まれ。長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入った。万延元年(1860)『滑稽富士詣』を書いて世に出た。
 明治時代になると、当時の文明開化の世相を風刺した『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』等の作品を発表、明治開花期の花形作家となった。のち、ジャーナリズムの世界に転じ、『横浜毎日新聞』『仮名読新聞』『いろは新聞』 『今日新聞』などに関係し軽妙な文章で活躍。明治十二年発表の『高橋阿伝叉譚』は世上を賑わせた。明治二十七年十一月、六十六歳で没し、当寺に葬られた。
 墓石には、聖観音を線刻した板碑(十三~十六世紀頃に追善のため造られた供養塔、台東区有形文化財)がはめ込まれている。本堂右側の山猫めをと塚は、夫婦の飼猫の供養の碑で、福地桜痴の碑文が刻されている。






明王院




明王院大師堂






龍谷


たんぼとけ

「たんせき守護の佐宗田余一大善神」
喉の病にお悩みの方は・御祈願・御礼・御守り等、寺務所にて受付けております。







◆本通寺







天竜



伊東玄朴墓

 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政十二年(1800)肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。
 文政十一年(1828)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形一丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野三丁目)に転居し医療を施し、天保二年(一八三一)には、佐賀藩医となった。同四年、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東一丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。
 玄朴は、嘉永二年(1849)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同志に呼び掛けた。安政五年(1858)神田お玉ヶ池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(1860)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治新政府に引継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。
 玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は、現在でも高く評価されている。なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。


伊東玄朴さん関係
ovanrei.hatenablog.com


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◆全生寺



当境鎮守大八幡菩薩






山岡鉄舟




 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)6月10日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱(いみな)は高歩(たかゆき)、字は曠野(こうや)、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。
 嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内小輔(くないのしょうゆう)などを歴任した。
 公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1683)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟(まつおえつそう)である。明治二十一年(1888)七月十九日53歳で死去した。
 山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬(つもる)、村上政忠の墓がある。



三遊亭円朝




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 初代三遊亭円朝は、通称出淵(いずぶち)次郎吉といい、天保十年(1839)四月一日音曲師(おんきょくし)橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855)16歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」や「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶(てんちゃ)、華道、聞香(もんこう)、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余りの枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水(ゆりてきすい)の指導の下に参禅し、難しい公安を喝破して居士号を授けられた。さらに書画古美術に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。
明治三十三年(1900)八月十一日62歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。



弘田龍太郎墓・曲碑




 「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年六月高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。
 弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの童謡を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。
 昭和二十七年、文京区本郷の自宅でなくなり、ここ全生庵に葬られた。享年六十歳。平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。


曲碑




山田良政君碑






山岡鉄舟居士之賛




 鐵舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐵舟を讃える碑であり、その才質の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐵舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える。



三遊亭圓朝翁碑




 明治三十九年、圓朝七回忌に際して建てられた追悼碑で、生前愛顧を受けていた明治の元老井上馨侯爵の書による。
碑文に「挂剣」(死者に対し信を守ることのたとえ)と刻まれていることからも、二人の交情が一方ならぬものであったことがうかがわれる。



続く。