2018/12/11 東新宿散歩 04 善慶寺/小泉八雲旧居跡/東富久歩道橋/禿坂/刑死者慰霊塔/余丁町児童遊園/環状4号線整備事業

この日記では先程のエリアから北西方向へ進む。
この辺の住所「余丁町」の読み方がわからなかったが調べると「よちょうまち」とのこと。



◆善慶寺

扉が閉ざされていたので中には入らなかった。





小泉八雲旧居跡
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 この地は、小説家・随筆家・日本研究家の小泉八雲(1850~1914)が、明治二十九年(1896)~三十五年(1902)まで住んでいたところである。
 八雲は、本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシャのヒフカダ島でアイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた。アメリカで新聞記者などの職につくが、日本に魅せられて明治二十三年(1890)来日、島根県の松江中学で英語を教え、やがて小泉セツと結婚して日本に帰化し、小泉八雲と改名した。八雲は明治二十九年に帝国大学の講師に招かれ上京し、この地に居を構えた。
 彼の作品「異国情趣と回顧」にみられるように、隣接する自証院(瘤寺(こぶでら))の風致をこよなく愛し、緑深い境内をよく散歩をしていたが、しだいに開発により自然が失われていくのに心を痛め、明治三十五年三月、大久保村大字西大久保(新宿区大久保1丁目1番7号付近)に転居し、そこで亡くなった。
 「小泉八雲舊居跡(きゅうきょあと)」の碑は、小泉八雲生誕百年を記念して昭和二十五年(1950)に有志の手により建立されたものである。英文はイギリスの詩人・文芸評論家エドマンド・ブランデンによるものである。



◆東富久歩道橋








◆禿坂






ちょうど交差点?のようになっている所に標識が立っていたのでどの道がそうなのかわからない。




 坂名の由来はさだかではないが、金吾堂版の『江戸切絵図』(「大久保戸山高田辺之図」)には『里俗(りぞく)カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。



◆刑死者慰霊塔(余丁町児童遊園内)

wikiには「富久町児童公園」内にあることになっているが・・・・・。
伝馬町の老屋敷がこちらに移転。
巣鴨に移るまでこちらにあったとのこと。
この慰霊碑があるところに処刑場があったとのことだった。



余丁町児童遊園




◆環状4号線整備事業






続く。