前の日記のエリアからさらに西へ進む。
コリアンタウンを進み、山手線のガードを超えて中央・総武線の大久保駅に向かう。
◆稲荷鬼王神社
以前来たことがある。
ovanrei.hatenablog.com
恵比寿神社鳥居
文政年間(1818~1829)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、
「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保年間(1833)当社に寄進された。
台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。
この水鉢は、高さ1m余、安山岩でできている。
◆小泉八雲終焉の地
こちらも以前来たことがある。
ovanrei.hatenablog.com
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は嘉永3年(1850)ギリシアのレフカダ島に生れた。明治二十三年(1890)アメリカの新聞記者として来日、その後記者をやめ小泉セツと結婚 松江・熊本で教鞭をとった。
明治二十九年(1896)日本に帰化し、以来東京帝国大学、早稲田大学で英文学を講じながら「怪談」等幾多の英文による名作を執筆した。
明治三十五年(1902)市谷富久町からこの地大久保に居を移した。
明治三十七年(1904)9月26日妻子の身を案じ、自分の仕事を気にしながら「ああ 病気のため・・・」の悲愴な一語を残し、帰らぬ人となった時に54歳であった。
伝統的な日本文化を広く欧米に紹介した彼の功労に対し、大正四年(1915)日本政府は従四位を追贈した。我が国の自然と文化をこよなく愛し、その真の姿を伝えた功績は偉大であり、高く評価されている。
◆小泉八雲記念公園
明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシャ・レフカダ町に生まれ、現在の新宿区大久保1-1でこの世を去りました。新宿区とレフカダ町は、この縁をもとに相互に交流を重ね、理解と友情を深めるため、平成元年(1989)10月有効都市となりました。
新宿区は、この度、小泉八雲が没したこの地に小泉八雲記念公園をつくりました。この公園の設計に当たっては、コンスタンティノス・ヴァシス駐日ギリシャ大使並びにスピロス・マルゲリス・レフカダ町長から詳細な助言をいただき、ギリシャ風の公園として整備しました。
ギリシャの雰囲気を出すため、古代の柱や集会場(アゴラ)をイメージした広場、中世風の建物、近代のイメージとしての白い壁などを設けました。
この公園が、日本を世界に紹介した小泉八雲を偲ぶ場所となり今後、新宿区とレフカダ町の友好がより一層深まることを願います。
現在の大久保から百人町の辺りは、かつてツツジの名所でした。これは、江戸時代に鉄砲百人組の与力・同心が屋敷の庭で育てていたツツジが評判となり、見物客で賑わうようになったのが始まりだと言われています。
明治20年代の最盛期には、花が70種類、数は1万株を超え、ツツジの見ごろに臨時列車が運転されるほどでした。
明治36年には、ツツジの多くが日比谷公園に移され、周辺の開発も進み、次第にツツジは見られなくなりました。大正時代に残ったツツジの一部は、館林市の茂林寺や箱根の小涌園寺に移されました。
ここに植栽しているのは、群馬県立つつじが岡公園において、保護育成されている「大久保のつつじ園」由来の原木から挿し木によって育てられた「大久保つつじ」です。
◆第二大久保ガード
上は中央・総武線。
そして大久保駅がある。
こちらでゴール。
こんなに歩く予定じゃなかったのになあ(w
ちょっと足が痛かった。
小泉さんの史跡が多いね!
難しそうだけど本を読んでみようと思う。