2018/12/13 両国散歩 05 亀沢町ガード/緑一丁目歩道橋/東京東信用金庫/榛稲荷神社/榛馬場跡/葛飾北斎住居跡/伊藤宗印屋敷跡

総武線のガードをくぐって南側エリアに移動する。
清澄通りを南下した後、両国駅南側エリアを細かく散策する。



◆亀沢町ガード

総武線の南側へ出る。




◆緑一丁目歩道橋






上記、亀沢町ガードが見える。




東京東信用金庫

こちらの信用金庫さん、北斎だらけ!
中には入らなかったけど、中もすごいのかなあ??


























◆榛稲荷神社








◆榛馬場跡(榛稲荷神社境内)

 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。
 勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
 天保八年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱漆の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も稲荷神社脇に住んでいたことがあります。



葛飾北斎住居跡(榛稲荷神社境内)

 この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨岳三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
 榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(『葛飾北斎伝』)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと意外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
 北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
 また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝『夢酔独言』の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。




◆伊藤宗印屋敷跡



こちらの地図の黄色く丸印をつけたところに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
もしかしたら反対側にあったのかなあ?
今度行ったときに探してみようと思う。



続く。