2018/12/13 両国散歩 06 旧・二所ノ関部屋/両国公園/勝海舟生誕の地記念碑/芥川龍之介文学碑/駆逐艦不知火錨/時津風部屋/本所松坂町跡石碑

両国駅南側エリアをどんどん西へ進む。
でも、史跡などがたくさんであまり進まない・・・・。



◆旧・二所ノ関部屋

google mapに載っていたので来てみた。
特に説明板などは無かった。



◆両国公園



ラジオ体操広場


掲揚台




勝海舟生誕の地記念碑




勝海舟生誕の地

 勝海舟は、文政六年(1823)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリー浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年(1853)六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、安政三年(1856)に講武所砲術師範役、安政六年(1859)に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、安政七年(1860)正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(1868)三月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(1875)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治十九年(1886)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(1899)一月十九日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。




勝海舟幕末絵巻

勝海舟
[文政6年1月30日ー明治32年1月19日]
(1823年ー1899年)
 海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷(おだに)家の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。
 海舟の曽祖父検校(けんぎょう)は元々は地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の下部を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。
 海舟の父惟寅(これとら)は跡継ぎの居ない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。
 若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅(さんぜん)と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台を作ったと、後に本人が語っています。



黒船来航
[嘉永6年6月13日](1853年)
 ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、浦賀に来航しました。
 アメリカの軍事力を前にして、対応に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めました。
 このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目され、海舟は次いで大阪湾の防備体制を検討するための現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足掛かりを掴みました。




島田寅之助
[文化11年4月3日ー嘉永5年9月16日]
(1814年ー1852年)
 男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流島田派の祖となった剣客。
 海舟も従妹である男谷信友の道場で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流(ちょくしんかげりゅう)免許皆伝となります。彼の薦めもあって蘭学や参禅修行も修めました。



幕府海軍の礎となる長崎海軍伝習所
安政2年1855年
[安政2年7月29日](1855年)
 海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立された教育機関
 海舟は伝修正を監督する「海軍伝習重立取扱(かいぐんでんしゅうじゅうたつとりあつかい)」として、伝習所へ派遣されました。このとき小十人組となり、ようやく無役の小普請組から脱しました。
 ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、実践的な操船技術も修得しました。





勝海舟アメリカへ
咸臨丸の渡航 安政7年1860年

[万延元年](1860)
 幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカの派遣しました。
 海舟は随行艦咸臨丸に乗船し公開を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難をきわめましたが、同乗していたアメリカ大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。
 安政7年1月13日(1869年2月4日)に品川から出向したのち、浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出港、安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間で公開したとされています。
 海舟はアメリカの軍事技術のみならず、政治体制や社会構成について日本との違いを確認しました。



咸臨丸
 幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m、重量380t、ヤク100馬力の蒸気機関を搭載した木造、三本マスト、12問の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。
 安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争にも参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船になりました。
 明治4年(1871年9に輸送中に暴風雨に会い沈没しました。




福沢諭吉
[天保5年12月12日ー明治34年2月3日]
(1834年ー1901年)
 中津藩出身、明治維新後は平民となり主に教育者として尽力しました。慶応義塾の創設者であり、一万円紙幣の肖像にもなっています。
 軍艦奉行の木村摂津守の従者として、海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリカから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも通訳方として同行し、西洋文化を目の当りにした諭吉は、帰国後、著書、学校、新聞をとおして西欧の文化や考え方を日本に広め、学問の大切さを説きました。





ジョン万次郎
[文政10年1月11日ー明治31年11月12日]
(1827年ー1898年)
 本名は中濱萬次郎、両市の次男として生まれ、漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり通訳や教師として活躍しました。
 通訳として海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。




坂本龍馬との出会い

坂本竜馬
[天保6年11月15日ー慶応3年11月15日]
(1835年ー1867年)
 土佐藩出身。海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、その所説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸海軍操練所設立に尽力しました。
 竜馬は姉乙女にあてた手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬していたことが窺がえます。
 亀山社中(後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力する撫で、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。




わずか一年の夢の跡神戸海軍操練所
元治元年 1864年

[元治元年5月開所ー翌慶応元年閉所]
(1864年ー1865年)
 海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍精錬所を開設しました。
 幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけではなく、操練所とともにも受けた私塾である海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。
 しかし、池田谷騒動や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から「激徒養成」とみなされ、海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。






陸奥宗光
[天保15年7月7日ー明治30年8月24日]
(1844年ー1897年)
 紀伊藩出身、海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、坂本龍馬海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。
 明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案や、第二次伊藤内閣では外務大臣とし不平等条約の改正や下関条約締結に貢献しました。





山岡鉄舟
[天保7年6月10日ー明治21年7月19日]
(1836年ー1888年
 江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。
 徳川慶喜の警護役高橋泥舟(でいしゅう)が、義弟である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海舟に紹介しました。
 鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を確認し、江戸城会場の校章に向けての大役を果たしました。
 勝海舟高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。





激動の幕末期と勝海舟
 ペリー来航以来、その対応をめぐって政争は激化、「安政の大獄」によって、長州藩水戸藩を中心とする尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を深めていきました。
 その中で海舟は、攘夷を配し有力諸藩と幕府が強力的に国内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきと主張しました。
 将軍徳川慶喜はあくまで、幕権の回復、強化をめざしますた、武力倒幕などの動きに直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地(じかんのうち)の方針が決定されます。
 鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜大阪城を脱出し江戸にもどります。このとき慶喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追討のため江戸を目指して進撃を開始します。
 海舟は恭順に意を決した慶喜から陸軍総裁に任命され、会計総裁の大久保忠寛と共に徳川方の首脳として、徳川家の存続に向けて、交渉の最前線に立つこととなります。




勝と西郷で江戸を救う
江戸城開城
慶応4年1868年

戊辰戦争
[慶応4年1月3日ー明治2年5月18日]
(1868年ー1888年)
 鳥羽・伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府勢力の指導者である、徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城無血開城したことによって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕府及び東北諸藩による戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち函館戦争を最後に集結しました。





[慶応4年3月から4月](1868年)
 東征軍が江戸に迫る中、慶州は徳川慶喜の除名と徳川家の存続のため、東征軍海軍参謀西郷隆盛と会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。
 海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏行使への事前工作も行っていたと推測されています。
 海舟から嘆願書を受け取った隆盛は、薩長支持の英公使パークスに攻撃を反対されていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。
 これにより、江戸城天正18年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から救われ、外国の軍事介入による内乱も防止されるに至りました。



「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、其罪を一心に乞はむと決意す。」
 (ひとたび予測のつかない事態が発生したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)に駆け入り責任はすべて自分が負うことを決意した。)
 「海舟日記」慶応四年(1868)四月十一日条(江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)







芥川龍之介文学碑




 芥川龍之介は、明治二十五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
 本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年(1898)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌明治32年(1899)同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治38年(1905)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、明治四十三年(1910)成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年(1913)東京大国大学英文科に入学、大正五年(1916)卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

 この文学碑はりゅうのすけの代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学ぶ氏の文才を偲ぶものとして両国所学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年(1990)十月に建立されたものです。

 芥川龍之介文学碑
「-お前はもう仙人になりたといふ望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。」
   「杜子春」より



駆逐艦不知火錨




錨の由来
 この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。
 この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・浸水三十二年・三百二十六トン・(館長六十三・五メートル・五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。
 怒りの裏側にあるアルファベットと1898の刻印は怒りの製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。





時津風部屋

説明板は無かった。



◆本所松坂町跡石碑




碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ
然ルニ大正大震災後ニ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日
町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ
永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス



ちょっと自信がない・・・。
間違ってるかもしれません。




続く。