2018/12/13 両国散歩 07 名前のわからない歩道橋/芥川龍之介生育の地/本所松坂町公園/飯澄稲荷/鏡師中島伊勢住居跡/旧・大島部屋/吉良邸正門跡

この日記のエリアも両国駅南側エリアを西へ進む。
ものすごい情報量だよね・・・・。


◆名前のわからない歩道橋

橋名板がなかった!
たまに橋名板がない歩道橋があるけど、有りと無しの違いなどあるんだろうか・・・・。







芥川龍之介生育の地





 芥川龍之介生育の地
 芥川龍之介は、明治二五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後7ヶ月で、当時本所区小泉町15番地(両国3丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となりました。
 芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。
 明治四三年(1910)19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学しました。明治三八年(1905)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、明治四三年(1910)成績優秀ににより無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正二年(1913)東京帝国大学英文科に入学、大正五年(1916)卒業しました。
 大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。
 昭和二年(1927)に35歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。
 龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。
 
 芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家にあたえらる文学賞。昭和一〇年(1935)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。








 大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地に会った母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧(かや)や木斛(もっこく)、五葉の松などが植えられていたころを記憶し、特に蝋梅(ろうばい)を愛したと述べています(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼いころから読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、大切に育てられました。
 近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども書きました。また小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩しました。緑の意図をたるゝ柳やまつくろな木立や活々した川の流れやカニの甲羅を並べたよううな石崖などがのどかな朝日に照らされて一斉に喜びの聲(こえ)を上げて之をむかへるようにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。
 また、墨田川での水泳に夢中になっていたことを多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。
 作家芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。




◆本所松坂町公園

吉良邸跡である。
以前来たこともあるし、団体さんがたむろしていたので中には入らなかった。
で、前の日記を探したがなかった・・・。
はてな日記以前だったか(w




◆飯澄稲荷神社



◆鏡師中島伊勢住居跡




 中島伊勢の住居は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府用達の鏡師で、宝暦十三年(1763)、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
 北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も北斎は中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
 飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この噂は、北斎自身が広めたようです。



◆旧・大島部屋

google mapに載っていたので来てみた。
大きく「大島」と書かれており、手形があるから間違いないと思う。




◆吉良邸正門跡





 この辺りに吉良邸正門がありました。
 元禄十五年(1702)十二月十四日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、大石内蔵助以下23名が用意の梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
 赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて、大声を上げながら、百人以上の大勢で討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水富士左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し出口を固めたたため、飛び出すことも出来なかったといわれています。




続く。