築土八幡神社からグーテンホーフ光子 居住の地まではだいぶ歩いた。
南西方向にどんどん歩いていく。
◆本多横丁
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。
◆熊谷組本社
神楽坂にあったんだね。
ビックリした。
◆築土八幡神社
ここは2017/05/16に来ている。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170516/1495053069
一度来ていても、神社だとお参りしちゃう。
◆グーテンホーフ光子 居住の地
新宿区立納戸町公園内にあった。
この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子〔青山みつ〕(1874〜1941)が、明治二十九年(1896)に渡欧するまで住んでいた。
光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治二十五年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。
渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト〔栄次郎〕(1894〜1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。
◆柳田國男旧居跡
日本民俗学の父・柳田國男(1875〜1962)は、現在、大妻女子大学加賀寮となっているこの地にあった旧柳田宅で、小説家・水野葉舟の紹介により岩手県遠野市出身の佐々木喜善(1886〜1933)と出会い、佐々木が語った遠野に伝わる不思議な話を119話にまとめ、明治四十三年(1910)に「遠野物語」として発表しました。
柳田は、明治八年(1875)兵庫県神崎郡福崎町に松岡家の六男として生まれ、15歳で上京。青年期から文学に親しみ、田山花袋、島崎藤村、国木田独歩らと交流がありました。東京帝国大学卒業後は農商務省に入り、翌年の明治三十四年(1901)に大審問院判事であった柳田直平の養嗣子として入籍し、昭和二年(1927)に世田谷成城に移るまでの27年間をこの地で生活しました。
「遠野物語」の話者となった佐々木は、当時早稲田大学在学中で、この旧柳田宅から徒歩で1時間弱のところ(現在、凸版印刷株式会社トッパン小石川ビルがある文京区水道1丁目)に下宿しており、毎月のように、柳田の求めに応じ旧柳田宅を訪れ遠野の話をしました。
「遠野物語」は、日本民俗学黎明の書として、また、日本近代文学の名著として、今なお多くの人に読み継がれています。
この坂道の北側に旗本久見家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという。(「御府内備孝」)
飲み水としては使えないらしい。
中守稲荷神社の近くにあった。
続く。