2018/02/05 小岩散歩 04 小岩菖蒲園/京成電鉄 江戸川橋梁/小岩市川の渡し跡/御番所町の慈恩寺道石造道標/北野神社/京成江戸川駅/宝林寺/本蔵寺

どんどん南下し、京成線と総武線を渡って東小岩のエリアに移動していく。



小岩菖蒲園

もちろんまだ咲いてない。
季節になったらまた来てみよう。






京成電鉄 江戸川橋





◆小岩市川の渡し跡/小岩市川関所跡



 江戸時代のはじめ、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へむかう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治八年(1875)に千葉街道と改称されています。
 江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へむかう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番という」とあります。これは、幕府の設けた関所のひとつで、常時四人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治二年に廃止されました。




◆御番所町の慈恩寺道石造道標





 江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東三十三観音もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、十二番札所として関東各地から参詣人を集めていました。
このあたりは、むかし御番所町といわてたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の関所がありました。
 この道標は佐倉街道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えたと思われます。
銘文は安永四年(1775)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の三方向を示しています。
銘文
正面  右 せんじゅ岩附志おんじ道
    左り江戸本所ミち
右面  左り  いち川ミち
    小岩御番所世話人忠兵衛
左面  右 いち川ミち
    安永四乙未年八月吉日
    北八丁堀 石工  かつきや加右衛門







<御番所町跡>
 ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するとことで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の頃にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
 御番所町は、『徳川実紀』、延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるもの考えられます。現在も残る角屋旅館のほか、筑前屋、清水屋などの旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。



他は薄くなりすぎて読みづらいね・・・・。
あきらめ・・・・。




◆北野神社





◆京成江戸川駅




◆宝林寺





◆本蔵寺




続く。