2018/02/05 小岩散歩 06 稲荷神社/JR総武線江戸川橋梁/善養寺/東小岩天祖神社/要法寺/都立篠崎公園

千葉県にあるお稲荷さんの後は市川橋を渡って東京都に戻る。
そこからは江戸川沿いに南下する。



◆稲荷神社




JR総武線江戸川橋





◆善養寺(小岩不動尊






影向(ようごう)の松

分かりづらいが、これ1本の松で、東日本最大の松と表の看板に書いてあった。



真ん中に元になってる幹が見える。




 影向のマツは、推定樹齢六百年余、主幹の樹高8m、根本付近の樹周約4.5mのクロマツです。地上2mの位置で四方に枝が伸び、東西方向約31m、南北方向約28mに及び、景観の秀麗さとあわせて日本屈指の威容を誇ります。
大町桂月(おおまちけいげつ)「東京遊行記(ゆぎょうき)」(明治三十九年)に「一大老松の横にひろがる者あり、凡そ10間四方に及ぶ。支柱は百を以て数えうべし。(中略)東京付近、松の奇観はこの寺に尽きたり」とあります。鏑木清隆「新江東図説」(昭和十二年)には「珍しいのは亭々として雲を凌ぐ星降りの松にも増して、その傍に巨大な傘をさしかけたような影向の松の方であろう」と書かれています。
昭和五十六年。四国の岡野松と日本一を競い、当時の大相撲行司木村庄之助氏によって東西の横綱に引き分けられました。その後、樹勢に衰えがみられましたが、平成十四年度から平成二十三年夏までの樹勢回復事業により回復に向かっています。




天明三年浅間山噴火横死者供養碑/傘の碑


天明三年浅間山噴火横死者供養碑

 天明三年(1783)七月、浅間山(長野県)の大噴火がありました。関東一体に火山灰が降り、山麓では山津波がおこり多くの人家が押し流されました。多数の犠牲者の遺体が利根川や江戸川を流れ下り、この付近の中州にも流れつきました。地元の下小岩村の人々は、遺体を収容し、手あつく寺内の無縁墓地に埋葬しました。寛政七年(1795)の七月に十三回忌をいとなみ、この供養碑を建て、その霊を弔いました。
 この供養碑は、昭和30年ごろから行方不明になっていましたが、47年に寺内で発見され、ここに再建されました。


傘の碑

 小岩、特に下小岩入谷(現東小岩2・4丁目)付近は、かつては和傘づくりが盛んに行われ、その販路は全国に及んでいた。小岩で傘が作られるようになったのは、一説では里見方の落武者が、此の地で傘張りで生計をたてたのが始まりといわれるが、実際に広まったのは江戸時代で、青山付近に住む小録の御家人が、内職として傘細工を行っていたものを、小岩の村人がそれに師事して技術を習得し、農閑期に副業としてとり入れたのが最初のように思われる。その後、明治後期より大正末期が最盛期で小岩の傘は「東京の地張傘」と称され、特に蛇の目は高級品であった。
 この碑はこれら地張り組合員の中で、特に業界に功績のあった、川野竹松氏を讃えるために、昭和五年三月建立されたものである。




小岩不動尊逆井道向石造道標

この中のどれかな?
説明板があればいいんだけど・・・。



小岩不動尊市川向石造道標

こちらもどれがそうなのかわからない。






◆東小岩天祖神社



右は水神宮と書かれているのが読めたが左がなにかがちょっとわからなかった。






要法寺



筆子塚



 筆子塚とは、寺子屋や家塾で教わった子が、師匠が亡くなった際にその道徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔のことです。
 本堂の前に置かれています。天保三年(1832)に日蓮聖人五百五十年遠忌の供養塔台石に「惣旦中」とともに区内旧村八ヶ村名(笹ヶ埼・上篠崎・下篠崎・下小岩・鹿骨・松本・谷河内本一色)と刻まれています。






◆都立篠崎公園





かなり大きな公園。
バーベキュー広場もある。
(゜-、゜)ジュル



続く。