南東方向に向かって歩く。
木場公園はかなり広い公園だね。
◆浄心寺
◆間宮林蔵墓
間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15年(1844)に深川蛤町の家で没しました。
名は倫宗(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二年(1800)に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
文化五年(1808)、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した間宮林蔵は翌文化六年(1809)七月二日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヵ月間に、およぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を奥州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
◆鶴歩稲荷大明神
道路工事していてバリケードがあったが、お願いして入れてもらった(w
◆木場公園
木場公園大橋
道路(葛西橋通り)と、仙台堀川に架かる、大きな橋。
公園内にある歩行者専用の橋だった。
木場公園ができるまで
木場公園は、仙台堀川を挟み南北にまたがる面積24.2haの総合公園です。昭和44年11月に発表された江東防災8拠点の一つとして、大震災時の避難広場に位置づけられています。また、昭和52年4月には「天皇陛下在位五十年記念事業の公園」に指定され、昭和53年2月に都市計画決定されました。
この公園の計画区域のほとんどは、公園事業に先立って始まった木材関連企業の「新木場」地区への移転跡地です。昭和53年3月の事業認可の時点で約65%の土地を取得しており、昭和62年度には土地の取得がすべて完了しました。その後、北地区から本格的に整備をはじめ、平成4年6月に都立美術館と地下鉄工事を行っている以外の区域を開園しました。
長い年月と多くの課題を乗り越え、開園にこぎつけることができたのは、土地所有者を始め、地元関係町会、江東区、区議会などの理解と協力のおかげです。
公園の整備計画では、下町らしさを強調しつつ、安全な防災空地の確保と快適な生活環境を作ることをめざしました。また、芸術文化、スポーツなどの多様な講演利用状況をふまえて次のような考え方で公園整備をすすめました。
1、江東地区の防災拠点の一つとして、樹木をできるだけ多く植え「水と緑の森林公園」とする。
2、記念物的な施設や公園橋をつくり、「記念公園にふさわしい景観」をつくる。
3、芸術文化の中心的施設として、東京のシンボルともなる「撮立美術館」をつくる。
4、身近なスポーツ施設として、「テニスコート」をつくる。
5、身近な生活のみどりと密着した施設として、「緑の相談所」をつくり、これと連携した「都市緑化植物園」をつくる。
なお、公園の南北を結ぶ「木場公園大橋」は、仙台堀川や葛西橋通りを一気にまたぐ斜張橋で、この地域のシンボルとなるものと期待しています。
続く。