2018/02/28 砂町散歩 06 境川周辺の移り変り/志演尊空神社/城東警察署/砂町銀座/高平稲荷/北砂公園

東西に延びる清洲橋通りから南北に延びる明治通りに入る。
明治通りを北上中、賑やかな商店街を見つける。



境川周辺の移り変り



 境川(現在の都道清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。
 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。
 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。
 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました。


あとはちょっと字が薄れていて読めないなあ。



◆志演尊空神社



力石



江戸東京の農業 野菜の促成栽培は発祥の地・砂村

 野菜の促成栽培は 寛文年間(1661〜73)の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案した と言われています。
 初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
 この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが 昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます



◆城東警察署



◆砂町銀座






◆高平稲荷神社

建物の階段をあがったところにある。
注意してみていないとわからない神社だね。





◆北砂公園

砂町図書館という大きな建物が隣接している。



続く。