2018/04/10 湯島散歩 03 宮本町・神田神社/宮本公園/遠藤家旧店舗/妻恋町/清水坂/妻恋神社

神田神社周辺から北へ移動。
坂がものすごく多く、すぐ疲れてきた(汗



◆宮本町・神田神社




通称「神田明神」とも呼ばれる神田神社は、天平(てんぴょう)二年(730年)以来の伝統を誇ります。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして平将門命(たいらのまさかどのみこと)です。
将門が神田神社に祀られるようになったのは、鎌倉時代のことです。当時、流行した疫病を将門のたたりではないかと考えた人々が、その霊を慰めるため、神として祀ったことが始まりとされています。慶長五年(1600年)九月十五日、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利し、天下人となりました。この日がちょうど同社の祭礼「神田祭(かんだまつり)」が催される日にあたっていたことから、徳川将軍家ではこれを吉事の祭礼とみなすようになりました。以来、幕府は神田神社に崇拝を寄せ、二代将軍秀忠のころには、江戸の総鎮守に定められました。
元和二年(1616年)に神田明神が現在の場所に鎮座した際、神主が寺社奉行所に願い出て許しを得、商人や職人が住む町をつくります。これが、神田明神門前町神田明神表門前、神田明神裏門前、神田明神西町の門前町です。
明治二年(1869年)、四つの町が合併し神田明神門前町となったのち、明治五年(1872年)には境内などの社地を編入して、神田宮本町となりました。江戸総鎮守のお膝元で生活することを誇りとしてきた住民たちの心意気が形になった名前です。その後、昭和三十九年(1964年)に外神田二丁目の一部となりましたが、いまでも神田祭には二百基余りの神輿が繰り出し、人々の篤い信仰を引き継いでいます。




◆宮本公園








三谷長三郎胸像

公園の中にあった。




 この胸像は、背面や台座部分にみられる銘文によれば、昭和七年(1932)に逝去した三谷長三郎氏の三回忌にあたる昭和九年(1934)十二月二十五日に故三谷長三郎翁胸像建設会により三谷翁の功績を讃えるために建てられ、彫刻家北村西望氏に胸像の制作を依頼し、昭和九年(1934)六月に作品は完成しています。
 三谷長三郎氏は、神田在住の実業家です。明治二年(1869)二月一日に神田塗師町に生まれ、幼名は銀次郎といいます。三谷家は、紀伊国屋の屋号を持ち、万治三年(1660)の創業以来銅・真鍮を商っていた商家です。長三郎氏は、明治十九年(1886)に10代目を襲名してから大いに経営手腕を発揮し、財をなしたといわれています。
 三谷氏は、財団法人三谷報恩会を結成して、神田区の学校教育のために多大な貢献をしています。例えば、列車を仕立てて毎年、春には鎌倉・由比ヶ浜へ遠足を、夏には箱根で林間学校を開催するほか、神田区内の学校に映写機・ピアノなどを寄贈しています。今川小学校には市内では初めてとなるプールを建設しました。また、進学優良児童には奨学金を贈っています。
 像の作者である北村西望氏(明治十七年・1884〜昭和六十二年・1987)は、長崎の平和祈念像の作者として著名です。
 この胸像は、当初は隣接する神田神社の裏側、東北隅にあった大銀杏のそばにありましたが、神社境内の整備のため、昭和三十六年(1961)に現在の宮本公園へと移設されています。
 この胸像は教育に関する人物を顕彰したものであり、千代田区の教育史を考えるうえで欠くことのできない資料です。




◆遠藤家旧店舗

昭和2年(1927)年に遠藤達蔵氏によって建造された古民家。
昭和48年に府中市に移築保存されていたが、平成二十一年に元の場所に戻ってきたとのこと。









◆妻恋町




 万治2年(1650)幕府の陸尺方(りくしゃくがた)(お駕籠かき)が大縄地拝領。その後元禄9年(1696)町屋になった。妻恋明神(妻恋神社)があるので妻恋町と名づけた。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のとき、この地にゆかりの宮をおいたといわれる。命は相模の走水(はしりみず)から房総半島に渡ろうとした。海は荒れ狂った。同乗していたきさきの弟橘姫(おとたちばなひめ)は、海神の怒りを鎮めようと海中に身を投げた。波はしずまり命は無事に海を渡った。尊は姫を偲んで「吾妻(あづま)はや」となげき悲しんだ。
 日本武尊のゆかりの地の村人たちが、尊と姫を二柱の神として祭り、吾妻明神と名づけた。ロマンあふれる町名であり、土地の人たちのゆかしさが偲ばれる。




清水坂



 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きすくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その視木々は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮お茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を待ちに提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。



後日に石柱を撮影してきた。




◆妻恋神社







恋妻稲荷神社


馬頭観音





水子地蔵




続く。