2018/04/14 台東散歩 02 神田元佐久間町/神田亀住町/黒門児童遊園/燕湯/亀住稲荷神社/仲御徒町駅

北東方向へ散歩する。
04/12に通った道もあった。



◆神田元佐久間町




なんか見たことがあると思っていたら、やはり4/12に来ていた。
詳細はコチラ↓
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180412/1523767251



◆神田亀住町



江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉(ぶぜんこくら)藩小笠原家の中屋敷となっていました。
神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地(うえのちょうだいち)が、明治二年(1869年)に合併してできた町です。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
この年の十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、翌三年(1870年)、小笠原家の屋敷跡を代地(だいち)として与えられ神田川北岸より移転してきました。
明治四十四年(1911年)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947年)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964年)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。
町内にある亀住稲荷(かめずみいなり)神社は、豊前小倉藩中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛着をいだき、稲荷のための保存講を組織し管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。




◆黒門児童遊園



リンゴのオブジェがいくつか確認できる。



日本発祥のリンゴに関することわざはなかなか見当たりませんが、欧米諸国のことわざや言い回しにはリンゴがよく出てきます。
人々がリンゴをどう扱ってきたのかが読み取れる面白い例をご紹介します。


<1日一個のリンゴは医者を遠ざける>

リンゴを食べていれば医者にかからなくてすむ。
健康につながるという意味のことわざです。
整腸作用や高血圧の予防など、現代ではその効果が科学的にも証明されています。
ちなみにこのことわざ、イタリアでは「リンゴ」の部分が「トマト」に置き換わります。
お国柄が出ておもしろいですね。
日本にも「柿が赤くなると医者が青くなる」なんてことわざがあります。



<私の目の中のリンゴ>

古くから、目の中野瞳(中心の黒い部分)のことを丸いリンゴに居立ててappleと呼ぶそうです。
目にとって瞳の部分は必要不可欠なものなので、
「かけがえのない大切なもの(ひと)」という意味です。
左の文での使われ方も考えると、リンゴを「たいせつなもの」とするのは、ただの比喩ではなく、リンゴそのものも生活するうえで大切な果実であったように思えますね。


旧西黒門町

 東叡山寛永寺が創建されたのにともない、嘉永三年(1626)に同寺の黒門町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備孝が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。
 上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869)御成道を境にして東西に二分された上野黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。
 明治五年、上野にし黒門町伊勢亀山藩上屋敷武家屋敷を合併して町域を広げ、同四十四年には上野の二字を略し、西黒門町となった。



◆燕湯



◆亀住稲荷神社



仲御徒町駅

東京メトロ日比谷線の駅。



続く。