2018/04/14 台東散歩 03 金刀比羅神社/金刀比羅神社/佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡/佐竹商店街/三味線堀跡/櫻稲荷

前の日記のエリアから東へ進む。
ちょっと順番間違えて遠回りになった。



金刀比羅神社

柵の扉が施錠されてて、中には一歩も入ることができなかった。
神社名は確認できなかったが、google mapには「金刀比羅神社」とあった。



金刀比羅神社

こちらも金刀比羅様。
金刀比羅さんがこんなに近くにあるのは珍しい。






何かの準備をしていた。




◆佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡

江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した、東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄二年(一六八九)もしくは翌三年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号は曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永三年[一七七四]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(一七八一〜八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。




佐竹商店街

この写真の右下あたりに上記の「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」がある。




◆三味線堀跡




 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 
   二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。



◆櫻稲荷神社











続く。