2018/04/14 台東散歩 04 千代田稲荷/旧二長町/朝草・鳥越きりしたん殉教記念碑/カトリック浅草教会/蓬莱園跡

先程のエリアから南へ歩いていく。
ただ、ここでもちょっと道順を間違えて、行ったり来たりした場所があった。



◆千代田稲荷神社










◆旧二長町




 町の起立は明治五年(1872)である。対馬の宗家厳原藩伊勢国の久居に陣屋を構えた久居藩の邸地そして周辺の武家地を合併して二長町とした。
 町名はこの地が江戸時代より「二丁町」と呼ばれていたことに由来する。二長町とは、この地を東西に横切る小路につけられたとされているが、その由来はあきらかではない。この小路が東西に二丁あったからではないだろうか。
 江戸時代は武家地であったため町名が付されてなく、町としての発展は二長町となった明治以降である。特に明治二十五年(1892)浅草猿若町から市村座がこの地に移転して来てから賑わい始め、二長町の名は東京中に知れ渡った。明治三十年代頃、東京郵便局厩舎課があり、市内に郵便物を輸送する赤塗りの馬車が発散集合していたことも「新撰東京名所図会」は述べている。
 昭和三十九年(1964)住居表示の実施で、蔵前橋通りの南側が台東一丁目に、北側が同二丁目に編入された。




◆朝草・鳥越きりしたん殉教記念碑



この地に鳥越川が流れ、隅田川にそそいでいた。
この今は暗渠となっている鳥越川のほとりで江戸時代の初期 1613年 8月 16日、小伝馬町の牢獄に捕らえられていた者と共に 8名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首された。
同じく翌 17日には 14名、9月 19日にはさらに 5名がこの鳥越川のほとり、甚内橋より東の地にて処刑された。
これらの、幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつまでも忘れぬよう、この地に、この記念碑を建立した。




カトリック浅草教会




◆蓬莱園跡






 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。
 明治40年(1907)刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2千6百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。
 この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。