2018/04/14 台東散歩 05 堀北公園/医学館跡/金網稲荷神社/和泉公園/防火守護地の碑/美倉橋ガード

どんどん南下する。
南下するコースは地図が逆になるので、道を間違えやすい(w



◆堀北公園


堀北小学校


堀北小学校の碑


旧浅草向柳原町

 この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家地屋敷であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていった。向柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872)に誕生した。
 町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。
 肥前平戸藩松浦邸内には「蓬莱園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残をとどめている。



◆医学館跡(旧躋寿館跡)



 江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。
 明和二年(1765)、幕府奥医師多紀元孝(たきげんこう)が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館(せいじゅかん)から出発、寛政三年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。文化三年(1806)三月、大火に遭い焼失、同年四月に、前方の旧向柳原一丁目に移転、再建された。
 敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四年(1843)には寄宿舎を設け、全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。



◆金網稲荷神社





◆和泉公園

この公園は東京食糧事務所跡地を昭和46年(1971)秋葉原東部地区の8町会と佐久間小学校PTA、幼稚園母の会が協力し、地域の緑の広場として、又、災害時に於ける避難場所として活用すべく4年有余の年月をかけた住民運動が実り、千代田区が「和泉公園」として整備した。
之れを記念して此処に公園誕生の碑を建立す。



◆防火守護地の碑(和泉公園内)



この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります

佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部


関東大震災後、この土地の人たちは約30時間、バケツリレーなどで必死に火事を食い止めたとのこと。
すごいね・・・。



◆美倉橋ガード

このガードをくぐって山手線を渡る。




続く。