2018/04/16 馬喰町散歩 03 両国橋/大高源五句碑/ももんじや/三つの説明板/柳橋/初音森児童遊園

渡る予定がなかった両国橋を渡ってしまう(w
渡った先にも説明板がたくさんあった・・・・。



◆両国橋








大高源五句碑

google mapには「大高源五句碑」とあるが、他にもいろんなのがあった。
両国橋児童遊園という小さな公園内に沢山の碑や説明板があった。



一番左の碑が大高源五句碑だ。

「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」
大高忠雄→通称は源五・源吾(げんご)
赤穂浪士四十七士の一人とのこと。




両国橋

 両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ「大橋」であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。
 江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられずに、多数の死者が出た。そのため、大火のあとこの橋が架けられた。回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされるようになったのである。
 この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。
橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても開けた。幕末からは、川開きの花火もあって江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成した。



両国橋と百本杭

 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和五年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
 江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
 また、明治十七年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
 明治三十五年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。



奥の「表忠碑」は日露戦争で出征されて亡くなられた方のための「碑」とのこと。
左側に「大谷巌書」とあるので調べてみた。
大警視、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族院議員を歴任。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたるとのこと。




両国橋弁天 ー絵本墨田川両岸一覧ー

狂歌絵本「隅田川小雁一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々でにぎわう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の情報に見える小さい橋が、今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋、森のあたりが一の橋弁天、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。




◆もゝんじや




 享保三年(1718)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「もゝんじ屋」と総称しました。現在は、この「もゝんじや」を店名にしていますが、正式には「もゝんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。
 もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも、「山くじら」と称して食べられていました。
 猪は丹波鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼きにします。その他、鹿刺し、狸汁など、他にはめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。



◆三つの説明板




<両国物語 −片葉の葦ー>
 駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹きこみ方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議のひとつとされていました。
 その由来は・・・
 昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。
 当時、あしを吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。




<江戸の町 −藤代町跡ー>
かつてこの辺りにあった町名です。
その由来は……。
享保年間(一七一六〜三五)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。
 しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。
 回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、本所の入り口にふさわしい繁華街でした。




<江戸の町 −駒留橋跡ー>
駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四・五メートル)、幅二間(約五・四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。
 その堀の幅はもっとも広いところが四間(約七・二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと
伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。




柳橋




 柳橋神田川隅田川流入する河口部に位置する第一橋梁です。
 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌元禄十一年(1698年)に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治二十年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929年)に完成しました。
 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年(1991年)に整備し、平成十一年(1999年)に区民有形文化財に登録されています。




 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。

柳橋」と由来については、

(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。

 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。

柳橋の諸元

形 式 タイド・アーチ橋

橋 長 37.9m

遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)

建設年次 昭和4年12月(復興局施工)

春の夜や女見返る柳橋 子規

贅沢な人の涼みや柳橋 子規












橋の欄干に簪(かんざし)のオブジェが!




◆初音森児童遊園

サラリーマンが休んでました。




この回はやたら文字数が多い(w
続く。