2018/04/16 馬喰町散歩 04 初音森神社/浅草橋/篠塚稲荷/浅草橋駅/浅草見附跡/郡代屋敷跡

西へ進んで浅草橋周辺を散策する。



◆初音森神社

ビルの階段を上がって2階になる。




境内社






◆浅草橋







◆篠塚稲荷神社








浅草橋駅




◆浅草見附跡



浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。昭和31年10月1日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる

って、36門もあったんだね・・・。



旧浅草橋

浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。




郡代屋敷跡



 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代 の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(1590)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688〜1704)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門 内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷 と称されました。
 寛政四年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行 が関東群代を兼ねることとなり、この地に移住しました。文化三年(1806)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した跡には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷 と改称されましたが、江戸の人々はこの地を長く群代屋敷 と呼んでいました。





続く。