2018/04/28 浅草橋散歩 02 銀杏岡八幡神社/浅草橋須賀神社/加賀美久米森稲荷/陣内神社/鳥越神社/浅草天文台跡

この日記のエリアは蔵前駅西側あたり。
急に史跡が少なくなり、巡るのは神社がほとんど。
なんでこんなに史跡が少ないんだろう?



◆銀杏岡八幡神社





此葉(このは)稲荷神社





境内社



子守唄と銀杏岡八幡神社

江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し、高く評価されている「童謡集」は釈行智(しゃくぎょうち)の著によるものです。
行智(1778〜1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同により享和三年(1803)別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職となるなど台東区にゆかりがあります。
行智は、採録した子守唄を「寝かせ唄」「見覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類し、子供の暮らしの背景がよく解るように書き残すなどして、その伝承に努めました。



鳥居





◆浅草橋須賀神社








◆加賀美久米森稲荷






◆陣内神社





◆鳥越神社




鳥越神社
当神社は、白雉二年(651)の創建。日本武尊天児屋根命徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046-52)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16附近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月6日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。



福寿神社



志志岐神社







鳥居



旧浅草鳥越二丁目

 本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185)まで白鳥村とよばれていた。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の日飛田はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(六五一)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(1046〜1053)の頃、源頼家 親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとするとき、白い鳥に浅瀬を教えてもらい無事渡ることができた。頼家公はこれ白鳥大明神のご加護を讃え、鳥越大明神の社号を奉った。
  「鳥越夜祭り」
 六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子集によってかかげられた百十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭りは最高潮に達する。



◆浅草天文台




 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬(いのうただたか)がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ影保(かげやす)の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治2年(1869年)に新政府によって廃止された。



旧浅草蔵前

 本町は、付近の九ヶ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵 があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で三ケ所あった。大阪、京都二条と御蔵とあわせて 三御蔵 といわれた。その中でも特に# 浅草御蔵 は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で墨田河岸を整地し造成された。当時六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)のコメを収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地をもたない旗本・御家人に支給する給料米であった。




続く。