この日記のエリアはまだまだ水道橋駅の近く。
北東方向に向かって歩く。
◆藤田東湖護母致命の処
幕末の勤皇家 藤田東湖(1806〜55)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭(なりあき)の信任も、きわめてあつかった。
弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居(ちっきょ)の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰を命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人(そばようにん)となった。
安政2年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。
その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。
◆対馬藩宗家の江戸中屋敷跡
google mapのマークの位置は写真の所だと思われる。
現地には説明板など何もなかった。
WEBで調べると、水道橋外に中屋敷があったとのこと。
古地図にも確認できるということで、この東京都立工芸高等学校の敷地が元中屋敷だったと推察される。
◆宝生能楽堂
最初(大正12年)は神田猿楽町にあったとのこと。
今回散策するまでここに能楽堂があるなんて全くわからなかった。
◆水道橋稲荷大明神
◆金刀比羅宮東京分社
◆高松藩松平家上屋敷跡
金刀比羅宮敷地内に「松平褚重候下屋敷の跡」という説明板が建っていた。
この地一帯(東京都立工芸高校 宝生能楽堂 金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷のあったところである。
高松松平家は松平褚重を藩祖とし徳川光圀とは兄弟の関係にあった。爾来現13代の褚明氏に到るまで松平家は、四国にあって教育と経済の振興に力を尽して来た。
特筆すべきは12代褚寿氏で、氏は貴族院議長(1937年→1944年)として名声をはくし、わが国の議会政治史上に一点をとどめ、他方大正大震災の後、旧本郷区の要請で本郷学園を創設し、わが国教育面に大いなる貢献をした。
google mapには上屋敷跡とマークされているが・・・・。
その辺の事情が調べてもよくわからなかった。
続く。