先程のエリアから少し北のエリアを散策する。
丸の内線が高架から地下に潜っていく様子がわかった(w
むかし、文京区役所があるあたりの低地をニヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった
東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
また、ニヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年(1908)、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
◆旧春日町
むかしは野原であったのを、寛永7年(1630)3代将軍家光の乳母春日局(が、幕府に願い拝領し、局のお付きの御下人30人の住まいとした。『御府内備考(ごふないびこう)』
春日局とのゆかりで、古くは春日殿町(とのまち)と呼ばれ、のちに春日町となった。
この地を拝領した寛永7年は、春日局52歳、江戸城大奥の総取締りとして威勢並ぶ者がなかった。
拝領地になったとき、その鎮守のために稲荷社が祭られた。春日局の出世にあやかり「出世稲荷」と呼ばれ、現在も町の人にあがめられている。
この看板は、上記の「出世稲荷神社」脇に設置されていた。
◆春日園児童遊園
上記の「出世稲荷神社」境内になるのかな?
小さいけれど遊具がたくさんあった。
人がやっと通れる大きさだった。
上記の「旧東富坂」脇を走る丸の内線高架下?になる。
名前など調べてみたが手掛かりもなく・・・・。
石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2か月、明治44年8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月(1978)啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川
(喜之床時代の作)
続く。