2018/04/30 本郷散歩 07 啄木ゆかりの赤心館跡/長泉寺/旧菊坂町/宮沢賢治旧居跡/菊坂/本妙寺跡と明暦の大火

今度はやや西側を南下する。
ほんのちょっと歩いただけですぐに史跡があるのはすごいね!



◆啄木ゆかりの赤心館跡




 石川啄木(1886~1912)は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後、金田一京助を頼って、ここにあった“赤心館”に下宿し、執筆に励んだ。
 赤心館での生活は4ヵ月。その間のわずか1ヵ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨(びろうど)」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。
 しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助 の援助で共に近くにあった下宿 ”蓋平館別荘” に移っていった。


 たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 

                            (赤心館時代の作品)

文京区内の啄木ゆかりの地
 ・初上京の下宿跡(明治35年11月~36年3月)現・音羽1-6-1
 ・再度上京の下宿跡(明治37年10月~同年11月)現・弥生1-8あたり
 ・蓋平館別荘跡(赤心館〜明治42年6月)現・本郷6-10-12 太栄館
 ・喜之床(蓋平館〜明治44年8月)現・本郷2-38-9 アライ理髪店
 ・終焉の地(喜之床〜明治45年4月13日死去)現・小石川5-11-7 宇津木産業





◆長泉寺



ものすごい階段だね・・・。




◆旧菊坂町

これは冬にでも来ないと看板が見えないね・・・・。
WEBで調べるとこの一帯に菊畑が広がっていたためそう呼ばれていたとのこと。





宮沢賢治旧居跡






 宮沢賢治[明治29年(1896)〜昭和8年(1933)]は詩人・童話作家花巻市生まれ。大正10年(1921)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。菜食主義者馬鈴薯と水の食事が多かった。
 東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で写版刷りの筆耕や構成などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布施活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
 8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。




◆菊坂



 「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。


寝覚めせしよはの枕に音たてて なみたもよほす初時雨かな    
                    樋口夏子(一葉)



本妙寺跡と明暦の大火




本妙寺跡と明暦の大火>
 本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本本郷5-16)の台地一体にあった法華宗大慈院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
 境内には北山奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作囲碁本因坊歴代の墓所があった。
 明暦3年(1657)の大家“振袖火事”の火元とされているが原因には諸説がある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。


<私立女子美術学校菊坂校舎跡>
 この地に、明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学、同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期的な役割を果たしたが、更に大規模な校地を求め、昭和10年(1931)現杉並区和田へ移転した。




すぐ隣に「第四(本妙寺)校跡」の説明板があった。

 明治5年(1872)、近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3年(1870)年6月、市内に6つの小学校を開設した。

最初の公立小学校である。そのうちの1校が、この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高く、主に漢籍を教授した。
開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名であった。
翌4年(1871)12月、文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移った。今日の湯島小学校の前身である。





続く。