2018/05/06 代々木散歩 04 青少年総合センター/「春の小川」歌碑/渋谷はるのおがわプレーパーク/小田急線踏切 5/代々木八幡神社/庚申塔/福泉寺

今回の散歩で、一番の最南端エリア。
代々木八幡があんなに大きな神社だと思ってなかった!





国立オリンピック記念青少年総合センター

独立行政法人なんだね!
一般公開とかやってないのかな?




◆「春の小川」歌碑






 ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
 明治四十二年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
 現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。





◆渋谷はるのおがわプレーパーク

トイレ使いました。
今回の散歩コースはトイレが少ない(汗




小田急線踏切 5






◆代々木八幡神社





楽殿



社出世稲荷大明神





榛名社/天神社/稲荷社



境内社





代々木八幡遺跡




 この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたもので、標高32、33mの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島の端に位置している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のようなところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシシなどの動物が多く当時の人達はそれを採ったり木の果を拾って、見はらしの良いこの丘の上で永く住みついていた。
 昭和二十五年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときには、地下30cm位のところから沢山の遺物が発見された。
土器は縄文式時中期の加曾利E式の鉢や壷が一番多く、その他わづかではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曾利B式なども出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつづいたことがわかる。
石器としては石斧、石槌、石棒、石鏃、凹石、皮剥などが発見されている。
 この発掘のとき、地下80cm位の下のローム層の上に当時の住居(竪穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のままの家を組み立てて作ったのが、この復元住居である。この家は直径約6mの円形にローム層を約20cm堀りくぼめ、その内がわの周に高さ1m60cmの柱を10本程立て、その柱の頭に桁を横に結びつけ、その桁に椽を21本周から葺き寄せて、屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北には煙出しを作り東側には入り口をその東側の貯蔵室の跡にはここだけ椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまま残してある。貯蔵室に堀り埋めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしの二個の土器は別に保存してある。この家の内は冬は屋外より十度温かく、夏は十度程涼しいし、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ、クリ等枯葉樹にした。



代々木八幡異性出土品陳列






<代々木囃子>
代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行われていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存会が使用している囃子鉦に「天保2年辛卯二月 代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。昭和に入っても継続されますが、第二次せ界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和21年に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。
「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。2月の初午祭、5月の五社宮祭、9月の例大祭に町内を廻り、最後は神社に奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。



<代々木もちつき唄>
代々木の餅つきは、現渋谷区の初台、西原、上原一帯で、農家が5、6軒を一単位として共同で行われていました。
歳末の早朝から一単位あたり2時間ぐらいでつきあげ、夕刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていました。しかし、昭和30年を過ぎる頃から、農家の減少や農家の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和43年に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。

(1) 目出たな 目出た目出たの 若松さまよ
    枝も栄えて 葉も茂る

(2) 庭にゃな 庭にゃ鶴亀 五葉の松
    松の下にゃ おじじとおばば

(3) お前な お前な 百まで
    わしゃ 九十九まで
    共に 白髪の 生えるまで



訣別の碑



 この一対の燈篭は、明治42年(1909)、代々木の源(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奉納したものである。
 訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には、「大字代々木深町明治40年(1907)11月11日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」・続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ想ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治42年(1909)1月建設 良●拝書」とあり、この下段に奉納者の17名の名前が刻まれている。


●の所は漢字が出てこなかった。



臼田亜浪の句碑



  そのむかし 代々木の月の ほととぎす   亜浪
 臼田亜浪(1879〜1951)俳人。長野県出身。法政大学卒。大須賀乙字と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊して、高浜虚子らの俳誌「ホトトギス」に対抗した。この碑は、その創刊20周年を記念して昭和9年(1934)に建てられたものである。
 明治・大正の頃までは、まだ、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。



鳥居









庚申塔

代々木八幡から福泉寺の間にあった。







◆福泉寺






続く。