春日通りから離れて南下。
ちょい西へ行くと神楽坂エリアだね。
◆永井荷風生育地
永井荷風(1879~1959)小説家、随筆家。本名荘吉。別号断腸亭主人など。作品には、『あめりか物語』、『腕くらべ』、『濹東綺譚』や『断腸亭日乗』などがある。
荷風は、明治12年(1879)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほど麹町の官舎へ)
明治19年には、黒田小学校(旧区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。
『狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。
「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売り物となっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。・・・・」
小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである・・・・」 とある。
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。
江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが,1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで,戦前は「安藤殿坂」,戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で,漁をする人が坂上に網を干したことから,また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
◆春日一丁目児童遊園
ちょっと休憩させてもらった。
シャツクールと日焼け止めをドバドバぶっかけた(w
塾主中島歌子(1844〜1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田家にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集『萩のしづく』などがある。明治36年(1903)、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉(1872〜96)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。明治23年(1892)18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水(なからいとうすい)に師事して、処女作『闇桜』(明治25年)を発表して、小説家の道に進んだ。
近くの牛天神北野神社(春日1−5−2)境内に中島歌子の歌碑がある。
◆旧小石川区役所跡
google mapに載っていたので来てみたが、現地には説明板など何もない。
マークの位置は右側の大きな建物のあたり。
小石川区を調べてみると、1947年(昭和22年)に、本郷区と合併して文京区を新設すまで存在した区とのこと。
芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と、武の神・猿田彦命をまつる。人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人でにぎわったという。芸能の神として、歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れた。
なお、この神社はもとは貧乏神といわれた暗闇天女(弁財天の姉)をまつっていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。
合祀の高木神社は、旧・第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。
北野神社 は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。
縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
境内の南側に、中島歌子(1844〜1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃 らはその門弟である。
歌碑は歌子の死後、明治四二年(1909)門下生によって建てられた。
雪 中 竹
ゆきのうちに 根ざしかためて若竹の
生ひ出むとしの光をぞ 思ふ
続く。