2018/06/28 01 荒川散歩 01 三河島/三河島道踏切/三河島稲荷神社/ 喜楽浴場/三河島竜神/荒川三丁目公園/耳無不動三峰神社

24時間勤務アケで、三河島から南千住へ、そして都電の荒川二丁目まで歩き、三河島ポンプ場を見学した。
暑かったが風が強かったので少しだけマシだった。




◆JR常磐線三河島駅




変わった構造の駅だね・・・。
下に降りていく線路はどこに行くんだろう??




三河島道踏切




三河島稲荷神社

三河島稲荷神社は通称で、宮地稲荷神社というのが本当の名前らしい。



境内社




 三河島稲荷ともいう。宮地の名は当社よりおこったものであろうといわれる。天正7年(1579)の創建と伝えるが、今は失われた棟札に「弘治3年(1557)8月武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあったという。
 祭神は倉稲魂命猿田彦大神、天神社、神明宮、疱瘡神などを合祀している。とくに脚気に効き目があるとして参詣する人が多く、祈願成就の時には草鞋を奉納したという。末社天神社の神木の大欅は樹齢650年といわれたが、現在は切株のみが残る。社殿の右側には新吉原から奉納された安永8年(1779)2月初午銘の手水鉢がある。




三河島菜と枝豆

 三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で、江戸時代初期に、三河国(愛知県)の百姓が入植してつくりはじめたと伝えられています。
 三河島菜の特徴は、葉の幅が広く、色は黄緑。現在の白菜のようには結球せずに大株になり、外葉のつけねの部分が外の方向に張り出し、船の錨 に似た姿なので「いかり菜」とも呼ばれ、漬物にして食べていました。明治初年頃から作付面積が増えていきましたが、まもなく白菜の人気が高まるにつれて、 とって代わられました。
 三河島枝豆は三河島菜と共に作られてきた品種で、7月の中頃に収穫できる枝豆で、枝数が多く、さやの表面についている毛は白色、葉は濃い緑で、一鞘に3粒の豆が揃ってつく優れた特性をもっています。この地域の土質は、荒川下流の沖積土で、枝豆の栽培に適していました。
 しかし、当地の宅地化が進んだため、農地の消滅と共に、「三河島菜」「三河島枝豆」の産地は、東京農業の歴史にその名を止めるだけになってしまいました。



鳥居




◆喜楽浴場

すぐ右側に写っている銭湯




三河島竜神




◆荒川三丁目公園





◆耳無不動三峰神社


耳無不動


耳無不動の脇にあった庚申塔など



袈裟塚耳無不動

光三郎(仙光院9世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝承されている。
伝承によれば、悪い病いで耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚をつくり不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦10年(1760)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道しるべの文字が刻まれている。また、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝の「三河島御不動記」という黄表紙が寛政元年(1789)に板行された。
明治29年明治通り北側から三峰神社内に移された。





続く。