2018/07/07 小日向散歩 02 蛙坂/シドッチ神父墓所跡/切支丹坂/新渡戸稲造旧居跡/小日向神社/服部坂/小日向水道町

丸の内線に沿って後楽園の方に行きたかったが、シドッチ神父墓所跡を過ぎたところで、団体で僕と同じような散歩をしている人たちが・・・・。
行く手を阻まれてしまったので、有楽町線江戸川橋方面に行って戻ってくるとことにした。



◆蛙坂(復坂 かえるざか)




 「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳(つまびらか)にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。




◆シドッチ神父墓所




説明板など探したが、何も見つからなかった。
wikiで調べると「ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ」となっている。
『イタリア人のカトリック司祭。江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。』とあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3




◆切支丹坂

google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
昔、坂下に庚申の碑が建っていたことから「庚申坂」と言われていたそうである。
切支丹屋敷から一番近い坂ということで、切支丹坂と名づけられたらしい。




新渡戸稲造旧居跡

5000円札の人だね。
google mapに載っていたので来てみたが、説明板など何もなかった。
口コミには工事の為、説明板が撤去されていることが書いてあった。


文京区のHPを見てみると・・・
農政学者・教育者として活躍し、国際連盟事務局次長として「太平洋のかけはし」として知られる新渡戸稲造(1862〜1933)の旧居跡。
盛岡・南部藩士の子として生まれ、内村鑑三らとともに札幌農学校に学んだ。
その後、東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として多大な影響を与えた。
この地には、明治37年から没するまで住んだ。
と、あった。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/ato/nitobe.html



◆小日向神社

境内に車があるのが残念。





秋葉稲荷神社

現地では稲荷神社としかなかったような?
google mapには「秋葉稲荷神社」とあった。



鳥居



◆服部坂




 坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
 永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。……」と書いている。
 坂下にある旧文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。




◆小日向水道町



 古くは、小日向村の内でほとんど畑であった。明暦2年(1656)町屋となった。正徳3年(1713)町方支配となった。
 承応年中(1652〜55)から、町は神田上水定浚(じょうざらえ)を命ぜられたので、水道長と名付けられた。
 明治2年、智願寺(ちがんじ)、清光院(せいこういん)、龍興寺(りゅうこうじ)の門前を併せ、同5年久世(くぜ)氏邸および武家地、寺地を併せた。
 大日坂(だいにちざか)から西、音羽通りの崖上一帯は、下総関宿(しもうさせきやど)の藩主久世大和守(くぜやまとのかみ)(老中職の家柄)の上屋敷であった。明治維新後長く草原となり、今も「久世山」と呼ばれている。
  いつしかに星夜となりて久世山の
    木々にまつはる霧消えにけり
           (金子薫園 かねこくんえん)



続く。