2018/07/07 小日向散歩 03 神田上水旧白堀跡/黒田小学校縁起/旧小日向水道町/福勝寺/横町坂/石切劔箭神社 東京分祠/薬罐坂

江戸川橋に近いエリアから最初に設定した丸の内沿線のほうに向かう。
相変わらず坂が多い。



神田上水旧白堀跡

この建物の前に「神田上水旧白堀跡」と次の「黒田小学校縁起」がある。



ガラス張りになっていて、下の遺構を見ることができる。




 文京総合福祉センター建設工事に伴い、平成二十三年から二十四年にかけて実施された文京区小日向一・二丁目南遺跡の発掘調査で、神田上水関連遺構が検出されました。この地は、旧黒田小学校(後の区立第五中学校)の跡地にあたります。
 神田上水は、神田川(旧平川)を水源として、江戸市中のおよそニ〜三割の範囲に飲料水をまかなった、江戸を代表する上水道として知られています。神田上水が市中に入るこのあたりの白堀(しらほり)(開渠(かいきょ))の堀)は、神田川の北岸、小日向台地の南側縁辺部を沿うように流れていました。本調査で初めて発見された新旧ニ筋の白堀跡は、間知石(けんちいし)の石積み護岸で、長さは60m以上確認され、その一部を現地で展示しています。展示範囲は、旧白堀の石積み護岸(15b号遺構)をそのまま利用した新白堀の護岸(15a号遺構)が後に石蓋(万年巻石蓋)で覆われて暗渠化された所です。発掘調査時には、石蓋は取り除かれ、石積みも一部破却された状況でしたが、見つかった状態のまま復原し展示しています。
 東京砲兵工廠(小石川後楽園)では、東京市内への上水の供給が終了した明治三十四(1901)年以降も、神田上水を工業用水や園内の大泉水の水源として使用していました。大正初期、石蓋で覆われた水路は、鉄管の水路へ置換し姿を消します。関口大洗堰(せきぐちおおあらいぜき)の取壊しや庭園用の深井戸設置に伴い、昭和八〜十(1933〜1935)年頃、神田上水の役割は終焉を迎えます。
 神田上水関連遺構は、都市化の進む江戸・東京で飲料水をどう確保してきたのかを考える上で貴重な情報を提供しているといえます。




書いてあることはほぼ一緒だね。




◆黒田小学校縁起/黒田小学校・文京区立第五中学校 跡地

 われらの母校黒田小学校は明治十一年二月ここ小日向水道町に創建された。その校名は当時水道端二丁目居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米2千石を東京府に献納しもって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運、日に隆盛に赴き、昭和十一年七月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り3階建てとなし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしむることとなったが、昭和二十年五月二十五日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰したために翌二十一年三月廃校となり、ここに春風秋雨七十年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが今校庭に立って黒田小学校が明治大正昭和にわたり幾多有為の人材の揺籠として国運の興隆に寄与した光輝ある歴史を回顧すれば感慨を禁じ得ない。すなわちわれら卒業生有志相謀りここに碑を建てて永く恩師級友を偲ぶよすがとするものである。 




 黒田小学校は、明治11年(1878)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
 当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功労による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。東京府はその篤志を伝えるため、校名を黒田学校とした。
 当初の校舎は、南北2棟の木造で8教室であった。昭和11年(1936)、建て替えられて鉄筋コンクリート造り3階建てとなった。
 黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、各界に多くの卒業生を送った。卒業生の中には、松平恒雄(外交官、政治家)、永井荷風(小説家)、黒澤明(映画監督)などがいる。
 昭和20年、空襲で校舎は内部が全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になった。
 文京区立第五中学校は、昭和22年4月、六三制による区立中学校の一つとして、区立小日向台町小学校内に設置された。一方、旧黒田小学校の校舎は戦災者の集団住宅となっていたが、昭和24年から内部の改修が行われると同時に生徒の移転が始まり、翌年には全生徒が移り独立校舎となった。
 創立時の教育目標は、民主的で文化的な人間の育成を目指すというものであった。その後改訂を経て、心身共にたくましい人、高い知性と豊かな情操をもつ人、骨身を惜しまず働く人、社会に貢献し信頼される人、といった教育目標を設定した。
 平成21年(2009)3月、生徒数の減少により第五中学校は第七中学校と統合し、文京区立音羽中学校となった。ここに文京区立第五中学校は惜しまれつつ廃校となり、黒田小学校以来の歴史をとじた。





◆旧小日向水道町





 古くは、小日向村の内でほとんどが畠であった。明暦2年(1656)町屋となり、正徳3年(1713)町方支配となった。
 承応年中(1652〜55)から町は神田上水定浚を命ぜられたので、水道町と名づけた。
 大日坂から西の崖上一帯は久世大和守の屋敷であったので、「久世山」と呼ばれた。



さきほどの旧町名板と書いてある内容がほぼ一緒だね・・・。





◆福勝寺




◆横町坂




石切劔箭神社 東京分祠

いしきりつるぎやじんじゃ と読む。
元は東大阪市東石切町にある大きな神社らしい。
今度行ってみたい。





◆薬罐坂(やかんざか)(別名:野豻坂)

google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。


WEBで調べてみると、『野狐のことを野豻(やかん)といった。野狐が出て人をたぶらかすような、もの寂しいところなので野豻坂といったのであろう。そして、野豻から薬罐に転じたといわれる。』とあった。
http://saka.30maps.com/map/1674




続く。