2018/07/12 小石川散歩 02 極楽水/吹上坂/善仁寺/滋照院/辰巳屋惣兵衛の墓/三百坂

どんどん南下する。
坂が多いが、比較的なだらかな坂だった。



◆極楽水




 ここは、了誉聖冏 上人が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。










◆吹上坂

説明板が見当たらなかったが、WEBで調べるとあるみたいだ。
もう一回行ってみよう。




◆善仁寺





塚田正夫

将棋の名人だったとのこと。






◆滋照院






◆辰巳屋惣兵衛の墓(滋照院内)




 江戸中期の遊侠人で、本名は平井辰五郎(1733-1821)と言った。
 伝通院門前に居住して、茶漬け飯・田楽豆腐屋を開業した。しかし、店は家人に任せ、もっぱら、遊侠の生活にふけっていた。
 辰五郎は生来、踊りが好きで、若い頃から暇をみては、踊りに時を費やした。特に、踊りの名声を高めたのは、女装して面白おかしい所作をとりいれてからである。
 天明8年(1788)には、「仮面」をつけて踊る「狂言神楽」(里神楽と類似型)を創案し、江戸市民の人気をあつめた。
 山王権現社、神田明神社のほか、江戸市中の各神社の祭礼での活躍は言うにおよばず、大名邸での宴会の余興にも招かれるようになった。そのような時、自分は遊戯のために踊るのであり、利欲のためでない、と言って金銭を受けとらなかったという。
    「お祭と神楽の堂に辰巳屋の枯木娘や花咲かせ爺」蜀山人(太田南畝)





◆三百坂



 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。
 松平家では、新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。
 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後 衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。




続く。