2018/07/12 小石川散歩 05 春日局像/幸田文ゆかりの「ハンカチの木」/童謡「ちいさい秋みつけた」とばぜの木/東京都戦没者霊苑/諸工伝習所跡記念碑、陸軍工科砲兵工科学校跡/小石川後楽園とその周辺/水道橋駅

ここも昔散策したことがあるが、こんなにいっぱい史跡があったんだね・・・。
春日局像と東京都戦没者霊苑の二つしか巡ってなかったなあ。



春日局



文京区と春日局

 文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。
 また春日局菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年(1989)一月より1年間NHK大河ドラマ春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し区民の皆様と共に区内の活性化、地域の振興を図ることを目的として主主の事業を推進しました。ここに本地業を記念して春日局像を建立することにいたしました。





幸田文ゆかりの「ハンカチの木」




 「ハンカチの木」は19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんでダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチノキ」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。
  一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同様の丸い花序で、白い苞片(ほうへん)に守られているように見える。4〜5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。
 作家の幸田文(1904〜1990)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の家の庭に仮植えされていたものである。平成14年(2002)年12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ磔川公園に移植された。
平成16年(2004)は幸田文生誕100年にあたる。


縁のある木
縁のあるなしは人ばかりではない。樹木にもそれがあり、時に思いもかけぬ縁が生じることがある。この樹はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。「ハンカチの木というのだから、きっと白い花が咲くのだろう」と、木を贈られた母は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。
 それから七年、まぶしいほど明るい五月の空の下で新緑が萌え、枝先に大小二枚の真白な苞が風に揺れていた。中心に小さな蕾の集合体を両手で大切に囲っているように見える。木の咲く花のかたちとしては、他に類がなく、自然はたった二枚の白く美しい不思議な姿の花をハンカチの木に与えたかと胸が熱くなる想いで見守った。母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。
 母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。




◆童謡「ちいさい秋みつけた」とばぜの木



童謡の名作を数多く残したサトウハチロー(1903〜1973)は、昭和12年(1937)秋に、上野・桜木町から向ヶ岡弥生町に転居した。家の庭には、はぜの木が植えられ、仕事部屋からよく見えた。童謡「ちいさい秋みつけた」は、真紅に染まったはぜの枝葉を眺め作詞された。昭和30年(1955)秋のことである。
ハチローの没後、旧宅は記念館に改装され、遺稿や愛用品が展示されたが、平成7年(1995)館は閉鎖され、平成8年(1996)記念館は北上市に新設された。
その後、残された “ はぜの木 ” は木の延命を図るため5本の枝を残し、切り株状にして平成13年(2001)10月、この地に移植された。樹齢約70年、毎年真紅の枝葉が “ ちいさい秋 ” を語り伝えてくれる。



ちいさい秋みつけた(三番)

サトウハチロー 作詞
中田喜直 作曲


誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋 みつけた



そういえば、井の頭公園で「ちいさい秋みつけた」の歌碑を見たことがあった。
2016/11/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161123/1480056402


こちらは作曲した中田喜直さんゆかりだね。




東京都戦没者霊苑

こちらもかなり前に来たことがある。
今回は入らなかったけど、また行こうと思う。




◆諸工伝習所跡記念碑、陸軍工科砲兵工科学校跡




 ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。明治五年七月十五日政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第2次世界大戦終結までその名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが73年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた本年は諸工伝習所創立100周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。




小石川後楽園とその周辺

このコースは、東京「歴史と文化の散歩道」池袋コースのサブコースとして設定したものです。
コース沿いに、小石川後楽園、五千円札で親しまれている「新渡戸稲造」旧居跡、「南総里見八犬伝」の作者「滝沢馬琴」の墓(深光寺)、”縛られ地蔵”で有名な「林泉寺」などがあります。
また、小石川後楽園庭園は、旧水戸藩上屋敷の庭園で、寛永のはじめ(1630年頃)初代徳川頼房(よりふさ)が作庭にかかり、2代光圀が継承して完成させました。朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れた中国風の趣のある回遊式築山泉水庭園で、江戸大名庭園の代表的なものであります。
中国の「岳陽桜記(がくようろうき)」の「天下の憂に先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、「後楽園」と名づけられました。



朱舜水(しゅしゅんすい)
wikiで調べると、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
墓所水戸藩主累代の墓地である瑞龍山(茨城県常陸太田市)とのことだったので、機会があったら見に行ってみようと思う。



水道橋駅

ゴール!
とにかく暑かった(w
夏は散歩に不向きだねぇ。
公園を見つけては水分補給しながら歩いた。