2018/07/26 小石川散歩 04 澤蔵司稲荷/滋眼院/善光寺坂のムクノキ/六角坂/慰霊碑/三浦梧楼将軍終焉の地/堀坂

この日記のエリアでも少し迷う。
方向音痴は地図を見てもダメね・・・・。



◆澤蔵司稲荷





◆滋眼院

澤蔵司稲荷に隣接していた。





善光寺坂のムクノキ




樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
 ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。




見つけた♪




◆六角坂



 「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいえり」(『改撰江戸志』)とある。
『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596〜1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。



いろは館跡についてはコチラのページで日記にしている。
2018/07/12
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180712/1531515366




◆慰霊碑




昭和四十六年十二月十六日午前八時五十分一瞬の交通災害に松永順子、柴山明美の幼く尊い命が奪い去られました。

その悲しい痛ましい現場は安全を守るガードレールが作られ、お二人の懸命の祈りを聞く思いに満たされます。今はやさしくほほ笑む神の子達よ、とこしえにやすらかにしずまって下さい。

 小さき星は 空にてり
    小さきことも  生に祈る





◆三浦梧楼将軍終焉の地




三浦梧楼(観樹と号す)将軍は長州(山口県)萩に生まれ、文久三年十九歳の時、高杉晋作の率いる奇兵隊に参加し大活躍した。明治維新後は陸軍省に入り陸軍中将に昇進した。退官後は貴族院議員、学習院々長、枢密院顧問官などを歴任、子爵に列せられ、政界軍部に於けるご意見番として隠然たる努力があった。嘗て本町会の設立に当って非常に力を貸して町会長に推戴した等も伝えられている。大正15年当地で亡くなられたので、ここに生前尽された将軍の偉徳を偲んで碑を建立した。




◆堀坂




 「堀坂は中富坂町の西より東の方,即ち 餌差町(えさしちょう)に下る坂をいふ。もと其の北側に 堀 内蔵助の邸ありしに因れり。今坂の中途に ホリサカ と仮字(かなじ)にて しるしたる石の標あり。此坂は 従来 宮内坂 又は 源三坂 と唱へたるものにて,堀坂といへるは 其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
 初め,旗本 堀 内蔵助の二代目の 利尚(通称宮内)の邸が この北側にあった。それでこの坂は「宮内坂」と名付けられた。ここの名主 鎌田源三の名をとって「源三坂」といわれた。ところが文政の頃(1818〜30)堀家が坂の修理をして「ホリサカ』と刻んだ石柱を建ててから「堀阪」というようになった。
 坂下に“こんにゃくえんま”で名高い「源覚寺」がある。


源覚寺についてはコチラで日記にしている。
2018/05/02
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180502/1525492949




続く。